2月21日。
2月の作業は今日で2日目だ。昨日に引き続き、まずは二人一組になって、ストレッチをするところから作業が始まる。
「あえて同じ人と組むのもアリかもしれないけど、昨日と違う人と組んでみたほうがいいかもね」と藤田君が言うと、誰とペアを組むか、皆がソワソワし始める。「マジで中学生とか高校生みたいになってるじゃん」と、その様子を眺めていた藤田君が笑う。
どうにか昨日と違う相手とペアになり、ストレッチを始める。「なんか、昨日やぎしにやってもらったのより優しい感じがする」。小泉まきさんがつぶやくと、「え、嘘」と、少し離れた場所でストレッチをしていた青柳いづみさんが言う。身長だけでなく、手足の長さも違えば、身体の柔らかさもそれぞれ異なるので、同じ動きを反復していても、微妙に感覚が違っている。
じっくり身体をほぐしたところで、藤田君は壁にホワイトボードシートを貼り、皆を前に語り出す。
「このWORKを通じて、こんなに身体のことを言っているのは、身体を壊してきた歴史があるからで。『cocoon』だけじゃなくて、ハードなパフォーマンスをしていくときに、足をやってしまったり、疲れから声をやってしまったり――。初期のマームは、とにかく声出せみたいな時期があったんだよね。衝撃だったのは、本番中にやぎの声が出なくなった回があって、そのとき原田郁子さんが紹介してくれたのが石ヶ森光政先生で。4月からは石ヶ森先生のボイストレーニングも始める予定で――石ヶ森先生は僕の作品もずっと観てくれてるから、『この作品だったらこういう発声がいいんじゃないか』って、細かな提案をしてくれると思うんだけど――その前に、僕が思っている発声っていうことについて、話しておこうと思います」
まずはちょっと、のっぺり説明します。そう前置きして、ホワイトボードシートに「あいうえお」と書き込む。中高生を相手にワークショップをするときに、こうして発声について説明することはあっても、大人を相手に説明するのは今日が初めてらしく、藤田君はちょっと照れくさそうに見える。
「演出家には誰しもあると思うんだけど、僕が好きな発声の仕方っていうのがあるんですね。もっと言えば、作品ごとにやってほしい発声とやってほしくない発声があるの。たとえばさ、『ロミオとジュリエット』みたいな古典をやるときと、穂村さんの短歌を扱った作品をやるときだと、そのテキストが持つ質感によって発声および滑舌って変わってくるとおもうんだよね」
藤田君が演劇を始めたのは10歳のときだ。子役として関わることになった地元の劇団は、ミュージカルを上演していた。その劇団で演出家をしていた影山先生は、劇団四季とも繋がりがあり、藤田君は小さい頃から劇団四季の俳優のワークショップを受ける機会があったという。高校生になると演劇部に所属し、高校演劇の全国大会にも出場。審査員を務めていたのが平田オリザさんで、平田オリザさんが演出した作品の記録映像を見て、桜美林大学に進学を決める。そこで現代口語演劇と出会い、それまで関わってきたミュージカルとは異なる発声に触れることになる。そして、最初は俳優だった藤田君は演出家となり、表から発声を聴く側になった。
「まず、日本語には、あいうえおがありますね。これは母音です。これは劇団四季の俳優の人たちからワークショップで教わったことでもあるんだけど、全部ローマ字で捉えたほうがわかりやすいです。a、i、u、e、o。母音というのは、口の形を決める音だと思ってください。この母音の口の形が作れてない人の声は、どんな劇場でやっても聴こえにくいです」
そこまで話し終えると、藤田君は「かきくけこ」から「ん」に至るまで、五十音をずらっとホワイトボードに書いていく。
「『あいうえお』があって、次は『かきくけこ』になるんだけど、か行を発音するとき、口の奥のほうをこすってるんだよね。……わかる? 基本的にはaiueoなんだけど、それにkがつくだけで、口の奥のほうをこすってる感じがあるんだよね。それで、『さしすせそ』と『はひふへほ』は、口の中であんまり接触がなくて、空気が擦れる音で作ってる音だよね。だから、aiueoの口の形ができてないと、特に聴こえない音です。『なにぬねの』は、鼻腔音です。これは舌も動いてるんだけど、鼻で発音してるの、わかります? これが発音できない人は、鼻炎の人が多いです。『まみむめも』も、意外と鼻腔音ですね」
藤田君の説明を皆の後ろで聴きながら、あいうえお、かきくけこ、さしすせそ、たちつてと、と発音してみる。普段なにげなく会話するときに、その音をどう発音するかなんて、ほとんど意識したことがない。だから自分の声はほとんどの人に伝わらないのだろうか。
「で、次が『やいゆえよ』なんだけど」。藤田君が続ける。「普通に書くとyaなんだけど、発音としては、実はiyaなんだよね。yaって、ダイレクトに発音できないはずです。最初に小さい『ぃ』がつくイメージですね。『らりるれろ』は、『たちつてと』と同じで、舌ったらずな人が発音しづらい音ですけど、舌の位置が重要な気がします。『わいうえを』は、これも『やいゆえよ』に近くて、『わ』じゃなくて、『ぅわ』なんです。最後の『ん』は、これも実は鼻腔音です。普通の人は口を閉じて『ん』って言うけど、この発音だと、舞台でへあ聴こえにくいです。だから、口を開けながら鼻にかけたほうが聴こえやすいですね」
日常生活を過ごしていると、自分がどんなふうに発音しているか、意識することもない。日本語を発語することは、意識しなくてもできるものだと思って暮らしている。でも、こんなふうに説明を聞いていると、口がもごもごしてくる。
「大事なのは、口の形を作るってことで。『かきくけこ』であれば、口の中でどこに当てるのか。『さしすせそ』と『はひふへほ』は口のどこにも接触しない発音だから、母音をしっかり立てたほうがいいんだけど、saとhaの『s』と『h』、これが息なの。この息をちゃんと吐けてないと、母音しか聴こえなくなっちゃうんだよね。『なにぬねの』だと、ちゃんと鼻腔に音を響かせられないと、母音しか聴こえなくなる」
具体的に説明するために、藤田君はホワイトボードシートに「赤い鳥」というフレーズを書く。その下に、「a ka i to ri」と、アルファベットで書き直す。
「劇団四季の俳優の人たちにワークショップをしてもらったときに教わったのは、この『赤い鳥』ってフレーズがあったときに、母音だけを抽出して、口の形を作る発声練習をするらしいんだよね。このフレーズだったら、『a a i o i』って母音だけを抽出して、それで発声練習をする。それは口の形を作るためなんだよ。でも、ただの会話の中で、めちゃくちゃ母音をはっきり立てて『赤い鳥』って言うのは変じゃん。だから、さっきも言ったように、作品の性質によって発声って変わってくると思うんだけど、どんな作品でも、『赤い鳥』の最初の『あ』が聴こえなかったら、聴き取れないんだよね」
演出家というのは、人の発語と向き合い続ける仕事なのだと、藤田君の説明を聴きながら考える。ひとくちに俳優と言っても、その人それぞれの発声がある。それはトレーニングの有無も影響するのだろうけれど、口の形が違えば発声も違っている。藤田君の話を聞いていると、その口の構造まで見透かしているような視線を感じて、少しぎょっとする。
「日本語って、最初の音が聴こえなかったら結構わからないんだよ。わかる? たとえば、『こいずみさん!』って台詞があったときに、『…いずみさん!』って発音になっちゃうと、わからなくなるんだよね。だから、最初の音をちゃんと立てる。あと、最初の音が母音だと、聴き取りづらくなるんですね。『赤鳥』だと、最初の『a』をきちんと押してあげないと、『k』から聴こえちゃう。口の中のどこかを叩いたり、息を吐いたりするのが子音なんだけど、それはつまり、音の形を作っているのは母音だけど、音を作っているのは子音ってことなんだよね。母音だけだと、音の形だけになっちゃうから、すごく聴き取りにくくなるんだよね。だから、『赤い鳥が鳴いている』って台詞があったときに、お客さんが聞き取りやすいようにって考えると、一音一音を立てて発声したほうがいいんだろうけど、そうすると発音として硬くなっていく。だから、発音が硬くならないように、あえてふにゃふにゃしゃべる劇団もあるかもしれないよね。だから、『赤い鳥が鳴いている』って言葉を劇作家が書いたとしても、どういう発声をするかってだけで、観客が受け取る印象は全然違ってくるんだよね」
こうして言葉を綴る仕事をしているぼくは、発声による違いということを、考えたこともなかった。皆から少し離れた場所に佇んで、赤い鳥が鳴いている、と口の中で小さくつぶやいてみる。