coccon

interview

今日マチ子×藤田貴大 cocoon 2022 対談 前半

──おふたりがじっくりお話しするのは、『文學界』で原田郁子さんと一緒に収録された鼎談以来だと伺いました。鼎談をおこなったのは2020年6月6日で、ちょうど最初の緊急事態宣言が解除されて、これから元の日常に戻っていくのかどうかという時期だったように記憶しています。調べてみると、6月6日の新規感染者数は22人で、ずいぶん遠いところまでやってきたなという感じがして。

藤田 たしかに、22人という発表にさえめちゃめちゃ怯えてましたね。

──あれから2年、おふたりがどんなことを感じながら過ごしてこられたのか、まずは伺えたらと思います。

藤田 僕はとにかく、『cocoon』に向けて過ごしてきたなって自覚があって。この2年間、キャストの皆と途切れず作業できたのが今までの『cocoon』とは全然違うし、いきなりやらなくてよかったなと思ってますね。

今日 私としても、『cocoon』の再演が見えてきて、まずはホッとしてるところです。あとはウクライナ侵攻が始まって、『cocoon』と似たようなことが現実に起きてしまっているというのが、ここ最近ショックなことではありました。

藤田 これは今日さんと話したいなと思ってたんだけど、時間が進んでいるようで全然進んでなかったんだなと思ったんですよね。77年前と同じようなことが起こって、全然先に行ってなかったんだなっていうのはニュースを見てても思うことで。

今日 『cocoon』みたいに人が肉体的に傷つく状況ってもう起こらないのではと思ってたんですけど、戦争が起きると人の肉体が傷ついて命が落ちるっていうことを目の当たりにして、逆に『cocoon』について語ることに慎重になってしまうところはあります。

藤田 今日さんと初めて出会ったのは2011年だったんだけど、計画停電で真っ暗な吉祥寺を歩いて、今日さんに会いに行ったんです。編集者の山本充さんに連れられて居酒屋に入ったら、今日さんは僕のことを女性だと思ってたらしくて、「誰がきたの?」みたいな感じになってたんだけど(笑)。あの夜印象に残ってるのは、今日さんが憤りを語っていたことで。あのときは震災直後だったけど、そういう意識は自分の中にはないのに、水を描くことが津波っていうものに繋げられてしまうことを今日さんが話していたんです。それを聞いて、ああ、僕が今考えていることに近いなと思ったんですよね。僕はただ海がある町で育ったから、海がある風景の中でエンディングを迎える演劇を横浜STスポットとか駒場アゴラ劇場で作ってたんだけど、そこで扱ってる海は津波のことなんて全然念頭にないのに繋げられてしまうことに違和感があって。だから──今の話を聞いてても、今日さんは変わってないなと思うのと同時に、今年の『cocoon』は慎重にならなきゃいけないトピックが多いなと思うんですよね

今日マチ子さんとのコラボレーション作品でも海を描いた
2012年『マームと誰かさん・さんにんめ 今日マチ子さん(漫画家)とジプシー』

──慎重になる。

藤田 戦争のことだけじゃなくて、ジェンダーを考えた時の問題意識とか、一言で暴力と言っても様々な暴力が世界中に蔓延っているわけだし、そういうひとつひとつの解像度は鮮明になっていくばかりで。だから自然と僕の中で考えが変わってきていて。それに、ウクライナ侵攻のことは繋げて語られてしまうだろうから、観客にどう重ねられるか精査して自覚的にならないといけないと思うんです。今ってもう、テレビでニュースを観なくても、マリウポリがどうとか、製鉄所が制圧されたとか、ケータイにどんどん情報が入ってくるじゃないですか。とてつもないことが単語レベルで語られ過ぎてるから、観客は良くも悪くも僕らが描く世界に入りやすい状況にもなっている気がして。5、6年前と全然違う気がしますね。

──世の中で大きな出来事が起きると、日常ってものが捉え直されるところがありますけど、日常をどうまなざすのかってことはおふたりとも大切にされているところだと思うんです。今日さんはずっとTwitterに「#Stayhome」で絵を投稿されていて、それが『Distance』『Essential』という本にまとまっています。一方で藤田さんも、Zoomも使いながら京都やいわき、フィリピンの人たちとワークショップをして、誰かの日常をインタビューするところから作品を立ち上げられています。おふたりは今、日常ってものに対してどういう意識がありますか?

今日 コロナになってからずっと、なんでもない日常の一コマを毎日描いてるんです。コロナの初期というか、初めて緊急事態宣言が出されたあたりって、正義を語る人があまりにも多過ぎて、普段の生活に即さない感じがしたんです。ごはんを食べたり、トイレに行ったり、どうでもいいことだったりがすぽっと抜け落ちたところで、皆が思う理想のコロナ対策だけが語られている状況が心底嫌になって、ひたすら無意味な情景を描き始めたのが最初のきっかけで。戦争とかコロナとか、大きいトピックになればなるほど、皆が正しさを振りかざしてくる。あと、表現する立場の人って基本的に声が大きい。自分が正しい意見を持っているってことをアピールしがちだなって、反省の念も含めていました。だから、特に意味を生まないけど、重ねていくことで何かが見えてきたり、意味がないように見える日々を送っていることに意味があるように感じられたり──そういうことをやろうと思ったんですね。

藤田 今日さんのツイッターって今も昔も自分の中でひとつの癒しだなと思うんだけど。昨日も5月18日のカットが上がっていて、そこには新宿駅で誰かを待ってる人たちが描かれていて。そのカットを見ていると、今日さんのまなざしが見えるんですよね。描く対象の人や風景の前に、今日さんが立っているのか、写真を撮っているのか──だから今日さんの目ですよね。今日さんの目がある場所が、ちょっと距離があるところに置かれてるってことが重要だなと思っていて。何が描かれているかとか、その精度がどうとかっていうより、その瞬間に街角に立っているときの、対象物との距離のとりかたがさすがだな、と。今ってやっぱり、対象物や語りたいこととの距離感がなくなり過ぎてると思うんですよ。距離があいてればいいってことではないんだけど、見つめる対象との間合いを皆詰め過ぎてるから、ニュースとかでも「制圧」みたいな言葉が端的にぽんと流れてくる。そこにはひとりひとりの顔がないし、ひとつひとつの瞬間が端折られてしまっていて。人って主観的に生きていくしかないんだけど──それこそワークショップをしてるときって、そこに関わってくれる皆をどう見つめるかっていうのをこの2年間調整してきたところがあって。なるべくその人たちの主観にはならないように、ちょっと距離をとりつつ見つめていくと、自分の中にはないことを言ってくれるし、自分にはない食べ物を食べてたり、自分にはない常識があったりする。そういうものを見ていくほうが落ち着くんですよね。過剰な言葉の世界に生きてしまっているから、普通のことを探したくなる。

今日 たしかに、今は皆、「これはこうだ」って断定する言葉を求めている感じはありますね。でも、『cocoon』の場合、延期になったことで演者の方と藤田さんが考え合う時間が延びて、それは絶対良い方向に作用するんじゃないかと思ってますね。

藤田 延期が決まったときから、今日さんはこの言葉でそう言ってくれてるんですけど、たしかに過去2回の『cocoon』では最初っから走るしかない状況になってたから、皆の普通の話って、飲み会とかでしか聞けてなかったんですよね。今は飲み会とか一回もしてないけど、この2年間キャストの皆と作業を重ねてきたから、『cocoon』に向かう以前の言葉を皆から聞ける時間が長くて。僕も今日さんも、「戦争ってデフォルトに誰かをあてはめていく」みたいなところに作家性があるタイプじゃないから、それが良い時間だったなと思いますね。

2022年の『cocoon』へ向けて定期的に集まり、作業をする様子

──いよいよ『cocoon』に向けた稽古が始まって、一昨日から学校のシーンに取り組み始めています。『cocoon』で描かれている子たちは中高生って年代ですけど、藤田さんはワークショップで学生と関わる時間もありましたし、今日さんの『Essential』を読んで印象的だったところの一つは学生同士の距離について書かれたところで。学生って年代の子たちに対して、おふたりが今どんなことを感じているのか伺えますか?

今日 10代って距離が近いなってことを発見して、『Essential』でちゃんと文章にも残しておいたんですけど、私の中ではこどもがくっつきあってるのは幼児のあいだぐらいじゃないかっていう勝手な思い込みがあって。でも、街をよく観察してると、中高生って5、6人がむぎゅっと固まって話し合ってるんですよね。

藤田 ああ、たしかに!

今日 大人になると、団子になって話すことってないじゃないですか。でも、中高生って粘菌みたいな生き物なのか、グループに人格があるかのようにむぎゅっと固まっていて、何も考えずに固まれるんだって、びっくりしますよね。大人って距離感が絶対あるじゃないですか。50センチぐらいまで近づかれたらヤバいと思って逃げるみたいな距離感があると思うんですけど、学生ならではの感じ――自分と友達のあいだが個人と個人って感じじゃなくて、自分の人格としての“仲間”っていうものがあるのかな、と。『cocoon』の女学生たちも、もちろん個々のアイデンティティはあるんですけど、グループとしての生き物みたいなところもあるのかなと最近は思ってます。

藤田 その話、今聞けてよかったです。たしかに、めちゃくちゃ近いですよね。

今日 いや、近いですよ。あと、よく見てると、友達同士で無意識に身体を触ってるんですよ。

藤田 これはワークショップしてても思うんだけど、10代ってきっと、まだ言葉でうまいこと言い合うみたいなところに達してないんだと思うんですよね。お笑いとかは僕らの世代みたいに何曜日の何時を待たなくてもいつだって見れるわけだから、より近いところにある気がするんだけど、言葉でやりあうみたいなところはなんとなく未成熟な気がする。それが面白くて、全然別の生物を眺めるように眺めてしまうときがあって、そこにフィクションを感じるから、10代を描くのはすごく楽しいなと思ったりもしますね。

──フィクションを感じる?

藤田 自分にはもうその感覚はないなって時点で、ちょっとファンタジーみたいな世界が出来あがっちゃうというか。学生同士がむぎゅっとなってるのも、僕らが「そんなに近いのはおかしいでしょ」って言ったところで、その子たちはありえないってことでは生きてなくて。そこで「そんな近いのはおかしいでしょ」って思う感覚にはもう虚構が始まってるなと思うから、描く対象として選んじゃうんでしょうね。

今日 ひとつのベッドに何人まで寝れるかってチャレンジがあるんですけど、3人ぐらいまで入ったとして、大人なら「3人入ったね」で解散して寝るじゃないですか。でも、私の体験では中高生はそのまま朝まで寝てるんですよ。それはちょっと信じられないというか、大人とはなにか仕組みが違うところがあるんだろうなと思います。

藤田 もうひとつ、さっきの話とは矛盾するようだけど、いきなり大人びた言葉を吐いてる子とかが電車の中にいて、ぎょっとするんですよね。めちゃめちゃあどけない感じなのに、いきなり確信をつくようなことを言ったりする。

今日 自分が年をとればとるほど、10代とのあいだは空いていくので、発見が多くなる感じはありますよね。

藤田 これも今日さんと似てる気がするんですけど、今日さんが『センネン画報』を描いてたときとか、僕がSTスポットで地元にいたティーンの時代を描いてたときって、今より10代に近かったはずじゃないですか。あの頃は「もうちょっと大人になったら、こういう時代も描かなくなるのかな」と思いながら過ごしてたんだけど、未だにその時代を描くのがなんだかんだで楽しいところはありますよね。それが何なのかは、ちょっとわからないんだけど。

今日 その頃の自分を失ったとかではないんですけど、掘り起こしていく楽しみみたいなのはありますよね。いまどきの子にしかない感覚もあるとは思うんですけど、距離感だったり、突然孤独に陥る感じだったり、完璧そうな子が実は病んでたり──そういうところはあんまり変わってないなと思います。

2013年『cocoon』

藤田 むぎゅっとなる身体性も面白いなと思うし、肩を震わせて泣いてる子とか、たまにいるじゃないですか。もう、やるせなさが身体に出てる感じなんだけど、まだ言葉と身体のバランスが組めてないから、それをどう外の世界に向けて発信していいのかわからないって身体性を持っているような気がして。『cocoon』を描くとなったときに、そこは自分の中で大切にしたいところで。『cocoon』ってタイトルはやっぱりすごいなと思うんですけど、それは学校っていう繭なのかもしれないし、ガマって空間性の中での繭なのかもしれないんだけど、ひとりひとりの中にも孵化しようとしている何かがあって、そこがうずうずしてるんだと思うんですよね。うずうずしてる時代のことを描いているってことで言うと、いろんなところに『cocoon』って言葉がハマるなって思いますね。

今日 たしかに、そうですね。皆と一緒にいたい気持ちと、個になろうとする気持ちが混ざり合っているのが10代後半なんじゃないかと思うんです。大人になると完全にひとりひとりにバラけてしまうんですけど、むぎゅっとなってる集団としての人格と、ひとりひとりの人格っていうのが、小学生ぐらいまではそんなに離れてないと思うんですよね。でも、中高生になるとバランスが取れなくなる。『cocoon』の中だと、そこは良い方向にもぞもぞしてると思うんですけど。今の10代の若い子が『cocoon』を観て、「これは私の物語だ」と思って欲しいなと思うから、普遍的に描ければいいなと思いますね。

藤田 その話を聞いていると、わかってくる感覚があって。僕は4月とか5月とか6月の街が好きじゃないんだけど、なんで好きじゃないかっていうと、まだ出会ってしまった社会とか世界に不慣れな人たちが街をうろうろしているからで。大学生になりたての子──私服ってものを着たての子を見ると、ちょっとおえっとなるところがあるんですよね。数ヶ月前まではむぎゅっとした世界にいた子たちが、大学生になった途端に個であることが推奨されて、「友達ってそんなにべたべたするものでもないんだ」ってことにされたり、「恋人ってこういうものなんだな」って気付かされたり。4月から6月って、そうやって社会の仕組みが一気にわかっていく季節でもあると思うから、そこにおえってくるんですよね。まあでも、さっきは「10代の子は肩を震わせて泣く」とかって話をしたけど、仕事帰りに肩を震わせて泣いてる大人も結構いますけどね。

今日 大丈夫かな。何があったんだろう。

藤田 それを考えると、大人もこどもも変わんないなと思う部分もあるんだけど、集団と個の集合と離散の感じは春って季節を境に隔たりがある気がする。雨が上がる頃にはちょっと、皆大人びるんでしょうね。

(聞き手・構成 橋本倫史)