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cocoon log_5 を公開しました

「ここまで皆の記憶にある海の話を聞いてきたんだけど、来週からはそれを再現していきたいなと思ってます」。2020年7月22日、Zoomの画面越しに、藤田君はそう語りかけていた。「海っていうのはさ、何万年も前からずっと、その海として存在しているわけだよね。その何万年の中では、そこで遊んで楽しかった記憶だとか、良い記憶のほうが多いはずなんだけど、人は悲劇に引っ張られてしまう。僕らが描こうとしている作品は、何万年って時間からするとピンポイントな時間ばかり扱ってたかもしれないなって思っていて。沖縄戦のときに、米軍の戦艦で海が埋め尽くされた何ヶ月間があって、そこに飛んできた砲弾で亡くなった人がいることはあるんだけど――その時間のことは忘れちゃいけない時間であることに変わりはないし、『cocoon』でその時間を描くことに変わりはないんだけど――その海にだって、誰かが小さい頃に訪れただけの記憶があるはずなんだよ。せっかく時間があるわけだし、まずは何でもなかった海でただ遊んだだけっていう時間のことを、ひとりひとりのインタビューをもとに作ってみたくて。最初は皆のエピソードだったものが、どこかのタイミングでフィクションになっていく瞬間が生まれたら面白いかなと思ってます」

ひとりひとりの海を「再現」するにあたり、藤田君がクローズアップしようとしていたのは、物の記憶だ。初めて海に出かけたとき、何を持って海に出かけたのか。その海にはどんな物が配置されていたのか。そんな記憶を、次回までに思い出してきてほしいと、皆に宿題を出していた。

「ここまで聞いてきたエピソードって、人に対しての記憶が多かったと思うんだよね。でも、もっと物にクローズアップしていきたくて。たとえば、どんな水着を着ていたのか。クーラーボックスは持っていったのか。ビーチパラソルは立てていたのか。そうやって、物によって記憶の海を再現して、“観客”に見てもらえるようにするのは面白いんじゃないかって気がする」

藤田君の作品における物と人との関係は、2015年に『cocoon』を上演したころと比べて、ずいぶん様変わりしたように思う。作品をつくるときにも、俳優にどんな言葉を語らせるかということよりもまず、どんなふうに物を配置し、それを俳優に移動させるかというところから、作品が立ち上がることが増えている。

「今思うと、2015年の『cocoon』のときって、対・人ってことで演劇をやり過ぎてたなと思うんですね。それ以降の僕の作品は、道具の動きと人の動きがどんどん等価値になって――だから、俳優がいれば演劇が成立するとは思わなくなったんですね。それは別に、『演劇というのは俳優だけじゃなくて、音響や照明や舞台美術があって成立する総合芸術だ』みたいなシンプルなことを言いたいわけじゃなくて、『ここにこれが置かれることに意味があるかないか』ってことだと思っているんです」

2020年7月1日から始まった「cocoonに向けたWORK」は、マームとジプシーの事務所に数人ごとで集まって、作業が重ねられてきた。当初の予定では、7月29日にはスタジオを押さえて、皆で集まることになっていた。でも、7月23日に東京都の新規感染者数が過去最多を更新する366人となったことを受け、作業は中断されることになった。2020年の夏に集まることができたのは、7月15日が最後だった。

自分の部屋の冷蔵庫を開いてみても、冷えているのはビールばかりだ。青柳いづみさんが作った、フルーツを漬け込んだジュースを皆で飲んだのが遠い昔のことのように感じられる。

 

 

「これ、可愛い」。グラスに添えられたマドラーを見て、そうつぶやいたのは猿渡遥さんだった。マドラーには貝殻や輪切りのレモン、スイカがあしらわれていた。

「狂った美意識のマドラーだよね」と藤田君が言った。「やぎ、“ポケ森”やり過ぎて美意識狂ったんじゃない?」

「ほんとだ、やぎしらしからぬ美意識のマドラーだね」と言っていたのは菊池明明さんだった。彼女が記憶の海として語っていたのは、神戸の海だった。神戸のおばあちゃんちは、2階の窓から海が見えた。初めて泳いだ記憶があるのも神戸で、いとこたちと一緒に須磨海浜公園に出かけたとき。夏休みになると、しばらく神戸で過ごしていたから、そこで習い事までしていたのだという。

 

 

「父がすごく海が好きで、小ちゃい頃からよく海に行っていたんです」。そう話していたのは高田静流さんだ。「父は『あれは何年の何月だ』って、克明におぼえてる人なんですけど、私が初めて海に行ったのは6ヶ月のときで、佐渡の海だったらしいんですね。でも、そのときのことはおぼえてなくて。記憶に残っているのは6歳のとき、家族旅行で沖縄に行って、読谷村にある日航ホテルってところに泊まったんです。そこはホテルの目の前がビーチになってるんですけど、ホテルに着いてすぐ皆が水着に着替えて、さあ海に行くぞとなったときに、『帰りたくない』って思ったんです。3泊4日の1日目なのに、楽し過ぎて、帰るのが嫌になっちゃって。まだ来たばっかなのに、あと何回寝たら帰るんだって、帰るときのことばかり考えていた記憶があるんです」

 

 

読谷村にある日航ホテルの前に広がる海には、ニライビーチと名前がつけられている。

このニライビーチの他に、沖縄のビーチを挙げた人がふたりいる。ひとりは仲宗根葵さんだ。

「仲宗根さんが初めて行った海ってどこ?」と藤田君。

「“トロピ”です」と仲宗根さん。

「トロピ?」

「トロピカルビーチです」

「え、トロピカルビーチなんだ? こないだ、そこ行ったわ。ほんとに若者がいるようなビーチだよね。ここ数年で行った海の中でも、かなりビーチ度が高かったけど、あそこっておばあちゃんに連れていかれるようなビーチだったんだ?」

 

 

藤田君は海の近くで生まれ育ったから、物心ついたときにはもう海で遊んでいて、初めての海というのは特段記憶に残っていないという。仲宗根さんもまた、トロピの近くで生まれ育ったから、初めての海は記憶に残っていなかった。海に連れていってくれるのはおばあちゃんで、小さいバケツを手に、服のまま海で遊ぶ仲宗根さんを、おばあちゃんは少し離れたところで見守ってくれていた。

「私のおうちは、58号線より“上側”にあったんです」。仲宗根さんはそう教えてくれた。“上側”というのは、東西南北で言えば南東側だ。トロピカルビーチから58号線までは平坦な土地が続き、58号線を越えると高台になるから、暮らしている人の感覚からすると“上側”になるのだろう。高台の先には、普天間基地が広がっている。仲宗根さんによると、58号線より“下側”は、昔はずうっと畑が広がっていたのだけれど、火事で焼けた家がぽつんと残っていた。お母さんからは「危ないから58よりあっち側には行かないで」と言われていたのだという。

「その『危ないから』っていうのは――なんでなんだろうね」と藤田君が尋ねる。58号線は交通量が多い道路だから、ひとりで遊ばないようにとお母さんは注意したのかもしれないけれど、藤田君は自分自身の記憶を思い返しているようだった。

「僕の実家の近くにも、『近づいちゃ駄目』って言われてる空き家があったんだよね。そうやってこどもに言って聞かせるときって、まわりの大人は僕らをこども扱いしてたわけだよね。それは、その家が崩壊寸前で危ないから、こどもが近寄らないようにそう言っていたのかもしれないんだけど――今の年齢になって聞いてみると、違う情報が聞けるような気がする」

もうひとり、沖縄の海を挙げたのは大田優希さんだった。彼女の記憶にある初めての海は、まだしゃべれなかった頃、恩納村のミッションビーチでバーベキューをしているときの記憶だ。

「そこは芝生があって、砂浜があって、海があるんですけど、私はずっと草むらにいて、皆がバドミントンしてる――そういう断片的な映像だけが残っているんです。そこにはおばあちゃんも一緒にいて――父方のおばあちゃんは『ママちゃん』、母方のおばあちゃんは『マーミー』って呼んでるんですけど、ママちゃんは琉舞の先生なので、そのお弟子さんの家族も一緒に、毎年皆で海に行ってました」

大田さんの記憶は、まだしゃべれなかった頃だから、かなり古い記憶だ。でも、アルバムを見返してみると、もっと昔に海に出かけたときの写真が見つかったという。

「こないだ話したのが、私がおぼえている一番昔の記憶だったんですけど、1994年の6月に海に行ったときの写真が残ってたんです。私は2月生まれだから、この時は生後4ヶ月で、まだ新生児だった私が写っていて。写真には芝生と白いベンチが――テーブルと一体になってるベンチが――写ってるから、そのとき行ったのもミッションビーチなんだと思います」

 

 

皆で大田さんの記憶を聞いてしばらく経ったころに、ぼくはひとりでミッションビーチを訪ねてみた。そこには今も白いベンチが並んでいて、向こうに白い砂浜と青い海が広がっていた。海水浴の季節も終っていて、浜辺に人の姿は見当たらなかった。ぼんやり海を眺めながら、いつだかの6月、ここに流れていた時間のことを想像する。

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