いつだってずっと、もう何年も。どこか内側に在るシーンというシーンは、眼裏で目まぐるしくリフレインしている。最速のスピードを持って、脳内を駆けめぐる。
あの季節の、あの湿度のなかを走りつづけている。もしくは、歩いている。校舎のなかを。休み時間、教室から教室へ。廊下を、歩いている。なんともない日々の眺め。しかし、その平穏さが一変する瞬間。いつのまにか忍びよっていた影に気づかずに、ある瞬間。いとも簡単に内側は壊されて、破裂した。
わたしたちは、終わることのない"cocoon"のなかを生きている。生きるしかない。
どういう音のなかで。どんな感触を持って。わたしたちは歩くだろう。走るだろう。旅にでたわたしたちは、どこでだれと出会って。なにを想うだろう。出会っただれかのなにかに、触れることはできるだろうか。
現在、変わることのなかったこの世界を生きて。あのあとの、そのあとの世界をどうして生きるのかという問いに抗いながら、でもやはり生きて。なにを想像するだろう。
もうとっくに内側は、空想の繭は破裂している。外に放り出されて、ただ立ち尽くして。なにを見つめて。耳を澄ませて。想像するか。
歩いて、そして走る。届くはずのない足音がここまで届いている気がするから。
2022.4.25 藤田貴大
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藤田貴大
ダミー□□□□親譲り の無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の 二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無 闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の 二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、 そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。 小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらい から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから。