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築33年のマンションの一室に、スパイスの香りが満ちている。藤田君は皆がやってくる何時間も前から料理にとりかかり、たまねぎを炒め始めていた。この日作っていたのはキーマカレーだ。
「あとで味見して欲しいんだけど、これで十分な気がする」と藤田君。
「前、他にも何か入れてましたっけ?」と制作の古閑さん。
「や、もっとカレー粉を入れてたんだけど、今日は無水で作ってるから、これで十分な気がしてる」
「にんにくとか、そういうのは入ってます?」
「そうだ、生姜入れるの忘れてた。もう、チューブのをそのまま入れちゃおう」
慌ただしく味を調整しているところにチャイムが鳴り、ひとり、またひとりと集まってくる。
2020年7月1日。2年後に上演を目指す『cocoon』に向けた作業が始まった。稽古場を借りて具体的な作業に取り掛かるまえに、マームとジプシーの事務所の一角で、まずは顔合わせも兼ねた食事会が催されることになった。ただし、17名の出演者が全員集まると密になってしまうから、今日から4週間、メンバーを少しずつ変えながら集まることになった。初回となる今日は、藤田君と青柳さん、小泉まきさん、高田静流さん、中島有紀乃さん、仲宗根葵さん、中村夏子さんの7人だ。


「じゃあ、よろしくお願いします」。調理の手を止めて、藤田君が皆に語りかける。「今は正直、そんなにせかせかできる状況にもないんですけど、せっかく上演まで時間ができたことだし、せかせか作業を進めていくってより、ゆっくり話を聞いていきたいなと思ってます。今日から4週間、皆のことを観察しながらテキストを書いて、このメンバーで何ができるかなってことを考えたいな、と。どの作品も、始まりは難しいんだけど、イタリアの皆と『IL MIO TEMPO』って作品を作ったときとかは、僕が気になることを漠然と質問したところから立ち上げたんですね。今回も、自己紹介もかねて、質問していけたらなと思ってます。それで、今日から4週間は僕が料理を作るんだけど、嫌いな食べ物ってありますか?」



「え、ほんとに嫌いな食べ物ってないの?」
「調理されてれば、何でもたべられるんですけど、ニンジンを生で食べろって言われたら、あんまり楽しく食べられないと思います」
「え、どういうこと? ニンジンが食べられないってこと?」
「いや、カレーに入ってるニンジンとかは食べられるんですけど、生で食べろって言われたら、あんまり楽しく食べられないと思います」
「さっきとまったく同じ台詞をしゃべってるけど、それはどういうこと? 生のままニンジンを食べろって言われたことがあるってこと?」
「いや、それは、ないんですけど。嫌いな食べ物って何だろうって考え始めると、ニンジンを生のまま調味料もなしに出されたら、好んでは食べれないだろうな、って」
「ああ、想像してみたってことだね? 嫌いな食べ物って何だろうって想像してみたときに、生のニンジンを出されたら食べられないなって思ったんだね?」
「そうです。でも、それは出されないだろうな、って」



「私は――今は克服したんですけど、昔はホタテが苦手でした」
「え、克服って、どうやったらそんなの克服できるの?」
「うーん、ホタテのことは考えないようにしました」
「いや、それ、克服できてなくない?」
「好んでは食べないですけど、昔は全然食べられなかったから、克服はできたんです」
「ちなみに、ホタテは何で嫌いだったの?」
「幼稚園のときに、すごく好きだった先生がいたんですね。その先生が、帰りの会のとき、『私の嫌いな食べ物は』って、いきなり話を始めたことがあって。その先生が大学生のとき、友達と海の近くへ旅行に出かけたらしいんですね。そこはホタテがすごく美味しいところだったから、ホタテをたくさん食べたら、全身に蕁麻疹が出て大変だったらしくて。『だから、先生の嫌いな食べ物はホタテです』って。それは先生の話であって、私が食べても蕁麻疹が出るわけじゃないって、幼稚園生なりにわかってはいたんですけど、苦手な食べ物になったんです」



「どうですか。嫌いな食べ物はありますか?」
「ないです。何でも食べれます」
「何でも食べれるって何だろう。僕も『何でも食べれる』って言い切ってみたいんだけど」
「海外とかに行っても、食べられないもの、ないです。一緒に行っている人が『口に合わない』とか言ってる食べ物でも、『え、食べれる』ってなります」
「『え、食べれる』ってなるんだ? ああでも、その気持ちはちょっとわかるかも。これは普段よく話し合ってることなんだけど、世の中にはまずいものってあると思うんだけど、飲み会とかで『これ、まずいね』って言われるのがつらいんだよね。僕はあんまり、まずいとかってことを思わなくて。『これ、まずいね』ってことを率先して言いたがる人がいるけど、楽しい会なのに、そういうことを言われるのがつらいんだよね。これ、何がショックだったんだっけ。……ああそうだ、僕は10歳から演劇やってたから、家族と一緒に晩御飯を食べたことがあんまりなかったんだよね。習い事みたいな感じで、夜は基本的に演劇やってたから。高校生のとき、久々に家族と一緒に晩御飯ってなったとき、母親が豚丼を作ってくれたの。その豚丼が、今でも忘れられないぐらいしょっぱくて。たぶん母さんも疲れてたんだと思うんだけど、分量を間違えたとしか考えられないぐらいしょっぱくて、塩漬けみたいな味になってたの。それを食べた時に、父親と弟が目を合わせて、失笑みたいな表情を見せたんだよね。その表情にマジでむかついて。この食卓はいつもこんな感じでやってんのかって思ったんだよ。何もしない男ふたりが、母が作った料理にいちゃもんつけていいのかってこともあるし、僕としては久しぶりに一緒に食卓を囲める日だったのに、そういう感じになるんだ、って。それで腹立たしくなって、3人分の豚肉を自分の器にとって、僕がひとりで食べたんだよね。……これ、××さんに届いて欲しいと思って話してるんだけど、そういう記憶ってありませんか」
「どうだろう。ひとりでごはんを食べないです。ひとりで食べるんだったら、食べないです」
「え、ひとりでごはんを食べたことないの?」
「ないです。必ず誰かと一緒に食べます。え、ひとりでごはん食べるんですか? 寂しくないですか?」



「私は、イカの塩辛が苦手」
「それは何が苦手なの?」
「たぶん、ワタが駄目。うってなる。あと、カニカマとか、ああいうのも駄目」
「チーカマも駄目?」
「チーカマも駄目。加工品が駄目なのかな。あとはコーヒーも駄目。ずっとトライしてみるんだけど、具合が悪くなる」
「それ、面白いね。全然知らなかった。こんなに付き合いが長いのに、何で知らなかったんだろう?」



「嫌いな食べ物、何だっけ?」
「嫌いというわけじゃないんですけど、皆が好きそうなもので、私が好んで食べないのは、常温のフルーツ」
「え!」
「食べれないわけじゃないけど、常温で並んでたら、食べようとは思わない。特にバナナ」
「え!」
「バナナって常温で食べるものじゃないの?」
「うーん。何でだろう。常温だと食べようとは思わないです」
「それはさ、冷えてるものがめっちゃ好きってことじゃなくて?」
「たしかに、水とかも、冷えてるほうが好きかもしれない。常温のほうが身体にいいんだろうなと思うけど、好きではないかな」



「じゃあ、次。好きな食べ物はなんですか?」
「私は、牡蠣」
「イカの塩辛が嫌いなのに、牡蠣好きなんだ。××さんは?」
「そのときどきの流行りがあるんですけど、今は白身魚です。鱈をムニエルにして、おろしポン酢で食べると美味しくて、最近ずっと食べてます」
「××は?」
「季節によって違うんですけど、今はトウガンが好きです」
「トウガンって、冬の瓜だよね」
「そう。冬の瓜」
「それはどうやって食べるの?」
「あの、すりながしとか。冬瓜のすりながしって、琥珀色で、すっごく綺麗なんです」
「え、××は好きな食べ物って何?」
「私は、お餅」
「お餅ね。××さんは?」
「好きな食べ物は、ケチャップです。なんか、そうなりますよね」
「そうなりますよね?」
「最初はオムライスが好きだったんです。でも、ずっと食べてるうちに、ケチャップが好きなんだって気づきました」
「ああ、その感じ、すごいわかる。俺も、刺身が好きなんだと思ってたけど、醤油が好きなんだって最近思うようになったな」



嫌いな食べ物と好きな食べ物を聞き終えた頃には、ごはんが炊き上がり、皆でお昼ごはんを食べる。キーマカレーと、ボリュームたっぷりのサラダ。こんな状況だから、言葉には出さないけれど、皆美味しそうにカレーを頬張っている。藤田君はホッとした様子で、皆の姿を眺めている。藤田君はいつも料理をするばかりで、自分ではほとんど食べずにいる。
それにしても――こんなふうに皆で集まってごはんを食べるなんて、一体いつぶりだろう。今のこの状況になって、誰かと顔を合わして話す機会も滅多になくなったけれど、誰かと一緒に食事をするだなんて、一度もなかったような気がする。不思議な光景を目の当たりにしているような心地のまま、キーマカレーを平らげる。

 

 

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