7月8日。マームとジプシーの事務所の扉を開くと、今日もまた慌ただしい空気が流れている。仕込みに時間がかかることもあって、先週より集合時間は1時間遅く設定されたものの、どこか忙しない感じが漂っている。
「まだやり直す時間はあるよね?」
「あると思います」
「何が駄目だったんだろう?」
「時間はいつも通りだったんだけどね」
「沸騰するまで中火にしてた?」
「中火にして、沸騰したら弱火にしたんだけど。弱火が弱すぎたのかな?」
土鍋で炊いていたごはんがうまく炊けなかったようで、藤田君は急いでお米を炊き直す支度をしている。
この日の参加者は、菊池明明さん、小石川桃子さん、佐藤桃子さん、猿渡遥さん、高田静流さん。それに、青柳いづみさんもいる。全員が揃ったところで、藤田君は先週と同じように、皆に嫌いな食べ物を尋ねてゆく。
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「嫌いな食べ物って、何かありますか」
「避けるのは、ミントの葉っぱかな。ミントの葉っぱは、最後まで食べずにいるか、最初に食べちゃう」
「え、食べるの?」
「嫌いだから、最初に片づける」
「嫌いだったけど、克服したものとかってある?」
「ああ、パクチーかな。克服したっていうか、大好きになっちゃった」
「それ、皆言うんだよな。パクチーって、僕もそんなに得意なほうじゃないんだけど、『どっかのタイミングで反転する』って言う人、多いよね」
「私はね、東南アジアに旅行に行ったとき、ないと物足りなくなっちゃった。ラオスのバインミー屋さんに行くと、パクチーが必需品なんだよ。パクチーとか野菜とかオリーブとか、はち切れるぐらい入ってて、ものすごく美味しかったんだよねえ」
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「嫌いな食べ物、何ですか?」
「あんまり食べないのは、すいかと柿です」
「柿なんだ? それは、何が苦手なの?」
「私のお母さんの実家は、柿がいっぱい採れるんです。それで、お母さんが妊娠中に柿を食べてたら、『もういらない』って、柿が苦手になって。それが私にも移って、柿が苦手になりました」
「そんなことって、ある?」
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「××さんは、パクチーとナンプラーが苦手なんだっけ?」
「はい。母がタイ料理好きで、一緒にタイ料理屋にも行ったんですけど、全然美味しくなくて」
「それは、どういうところが嫌だったんですか?」
「春菊とか、そういう香菜も苦手なんです。母も春菊が苦手だったらしいんですけど、『子を身籠ったら、春菊をたくさん食べろ』って言われたみたいで」
「子を身篭ると?」
「それでたくさん食べたら、好きになったらしいです。それまでは嫌いだったのに、無理やり食べてたら、好きになった、って」
「じゃあ、××さんを身籠ったときに、お母さんは春菊を克服したんだ?」
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「××さんは、なんで野菜が苦手なの?」
「なんでかわからないですけど、ちっちゃい頃から苦手で。茹でたら食べられるんですけど、青臭いのが苦手で」
「見るのも苦手?」
「見るのは平気なんですけど――ただ、ときどきすごい勢いで野菜スティックの匂いを飛ばしてくる人がいるじゃないですか。高校生のとき、弁当にキュウリを丸で入れてる子がいたんですけど、それは視界に入ってなくても、『あ、キュウリだ』って、匂いがくるんです。『すごいね』みたいな」
「そこで浮かぶ台詞は『すごいね』なんだ?」
「食べないで欲しいって思うわけじゃないんですけど、ただ、匂いでわかるんですよね。キュウリ食べてるな、って。野菜が好きな人には、キュウリの匂いとかって感じないらしいんですけど」
「逆にさ、野菜が平気な人って、何で食べれるんだと思う? 僕はさ、トマトがほんとに食べられないんだよ。いろんなものを克服したけど、トマトだけは無理なんだよ。居酒屋とかに行っても、冷やしトマトとか、美味しそうだなと思うんだけど、どうしても無理なの」
「へえ、美味しそうには見えるんだ?」
「冷やしトマトがある居酒屋が好きなのかもしれないけど、すごく美味しそうに見えるのに、絶対に食べられないの。だから、めちゃくちゃ切なくなるんだよね」
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「食わず嫌い」という言葉がある。視覚から得る情報で、「この食べ物は苦手だ」と感じてしまうのが食わず嫌いだ。反対に、目で見るには美味しそうだと思えるのに、いざ口にしてみると苦手だと感じることもある。あるいは、美味しいと感じるものでも、そればかり食べていたら毒になってしまう。お酒が好きでも、お酒ばかり飲んでいれば病気になるし、味が濃いものが好きでも、味が濃いものばかり食べていると病気になってしまう。人間の身体は、どうしてそんなふうに設計されてしまっているのだろう?
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「じゃあ、今度は、好きな食べ物は何ですか?」
「肉とか」
「肉。肉だと何が好きなの?」
「肉は、見境なく好きです」
「『見境なく』って、言葉のチョイスがすごいな」
「あんまり、肉の区別がついてないんです。鶏肉はわかるけど、豚と牛は、最近やっと区別がつくようになったぐらいです」
「なるほど。それはすごいことだね。××は何が好きなの?」
「梨です」
「え、梨? スイカと柿が嫌いなのに、梨が好きなの?」
「好きなものって言われると、真っ先に浮かぶのが梨なんです。料理だったら、クリームソースとかベシャメルソースが好きです」
「××さんは?」
「しらすと、明太子。そのふたつが家にあると嬉しいです」
「それはもう、お酒に合う二品だな。え、××は?」
「私は、生クリーム。あと、カレーと唐揚げ」
「生クリーム?」
「生クリームはね、業務用スーパーに行くと、298円とかでこんなでっかいホイップクリームが買えるんだよ。それを食パンにつけて食べてる」
「カレーは何で好きなの?」
「カレーはね、毎週日曜がカレーだったの」
「ああ、そういうのあったな。日曜のお昼だけ、普段は『食べちゃ駄目』って言われるようなインスタントラーメンを食べさせてもらえたんだよね。うちの場合、お決まりで出てたのはサッポロ一番」
「うちは土曜のお昼がラーメンだった。でも、うちのラーメンは全然美味しくなかった。ラーメンブームみたいなのがあったときに、初めて外でラーメンを食べたら、『ラーメンてこんなに美味しいんだ?』ってびっくりした」
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ごはんが炊き上がると、お昼ごはんになる。今日のメニューはキーマカレーかロコモコ丼だ。「これ、××さんは食べれないけど」と、藤田君はサラダボウルをテーブルに載せる。葉野菜の上にエビやアボカドがたっぷりのったサラダだ。
「これは食べれます」と、サラダが苦手だった××さんが一口食べて言う。「アボカドって、こんな味だったんだ。もっと野菜野菜してるのかと思った」
「アボカド、食べたことなかったの?」
「あんまりなかったです。アボカドって、出てきたの最近じゃないですか?」
「その説、あるよね」と藤田君。「『CYCLE』って作品があるんだけど――その作品はまだ上演できてないんだけど――そこでアボカドについて語るシーンもあって。たしかに、アボカドって、小さい頃に食べた記憶ってないよね。日本にも昔からアボカドはあったらしいんだけど、流行ったのが最近らしいんだよね」
小さい頃に食べたことがなかったものは、いくつもある。今のように選択肢が増えるよりずっと前の時代――今から50年前、100年前に遡ると、地域によって食べるものが違っていたのだろうし、家庭ごとにも違いがあったのだろう。こうして皆の食の好みを聞いていると、その向こう側に、食卓の様子が垣間見える。家の中にあって、家族だけが囲むことができる、食卓の風景が。
「最初に食べたとき、トロの味がして、ほんとに感動したけどね」
「トロ?」
「アボカドに醤油をかけると、トロの味になるんだよ」
「そうなんだっけ?」
「そうだよ。なんで知らないの?」
アボカドに醤油をかけると、トロの味になる。そんな噂が広まったのは、アボカドが物珍しい食材だったせいもあるのだろう。今から遠い未来に、マグロがほとんど獲れなくなった時代がやってくると、アボガドでトロを例える時代がやってくるのだろうか。
昔、トロって魚がいたらしくてね。
トロ?
そう、トロ。醤油につけて食べると、アボカドみたいな味になるんだよ。