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interview

原田郁子×藤田貴大 cocoon 2022.7 対談 後半

――6月12日に吉祥寺の「キチム」からリーディングライブを配信して、郁子さんは次の週末から沖縄に行かれています。その数日後には藤田さんが『cocoon』に出演する皆さんと一緒に沖縄を巡られていて、それぞれの沖縄滞在がどんな時間になったのか、聞かせてもらえますか?

原田 今回の『cocoon』でやってみたいことのひとつに、「沖縄で合唱を録音できたら」ということがあったんです。自分一人で歌ってるというよりは、何人かで歌っている声、合唱ができたらいいなと。――いつ頃だったかな、藤田くんに「(次に沖縄に行く時に)町の雑踏の音を録れたりしますか?」と聞かれて、それまではシーンごとに必要になるだろう音を、東くんが録音をしていっていたんですけど、初めて「人の営みを感じられる音、生活音」というオーダーがあったんです。「エンドロールで鳴ってほしい。劇場を出たら現在なんだけど、その前にすこしずつ混ざるっていうふうに出来ないかな」って。

藤田 『Light house』の時に、やろうとしていたけれどやれなかったアイディアだったんです。劇場から一歩外には様々な現実や日常、生活が広がっているんだけど、舞台上のフィクションの中では、ある意味で描いていることに矛盾のないような音、いつも普通に聞いているような音をキャンセルしたものが響いていて。『cocoon』だったら77年前に鳴っていた音かどうかという軸もあるし。そのことを自覚するのだとしたら、フィクションと現実を行き来するような時間が必要だと思って。最後のエンドロールはもうたった現在の音でよいのではないか、と提案したんです。

原田 その、やってみたいふたつのことを、マームの制作チームと、沖縄の劇場「なはーと」の方々、藤田くんたちがお世話になっている「宮里小書店」の宮里綾羽さんにも協力してもらって、ワークショップとして募集しました。曲は「とぅ まぁ でぃ」、場所はひめゆり学徒の皆さんが通っていた「一高女」(沖縄県立第一高等女学校)があった場所、栄町市場です。

藤田 栄町市場は美味しいお店だらけだし、2012年に初めて沖縄に足を運んだ時から訪れています。 今年の『cocoon』を描く時に、改めて学校生活を調べていくと、だいぶその辺の地図が具体化されて、自分の中で更新されていったんだよね。

原田 そう、私たちが滞在した時期と、藤田くんとキャストのみんなが沖縄に滞在した時期がすこしずれていて、会えなかったから、ちゃんと話せてなかったよね。――これは、屋上で撮った写真。

藤田 (写真を見ながら)ああ、知ってる人がいっぱいいる。嬉しいな。

原田 集合時間になって、一人ずつ集まってきてくれたとき、ドキドキしたよ。きっと集まってくれたみんなもドキドキしたと思う。まずは何度か練習して、声の感じを東くんにも掴んでもらおうと思っていたんだけど、ぱっと歌った感じがもう良かったから、わりとすぐ「ピースホール」の屋上に向かいました。「とぅ まぁ でぃ」をみんな覚えてきてくれて、嬉しかった。それで、前日まで大雨警報が出ていたそうなんだけど、その日は梅雨が明けて、屋上は炎天下。

藤田 やー、その真っ昼間はほんとヤバいよね。

原田 うん。日陰で休めるところがなかったから、「なるべく早く録らないと」って、マイクテストで練習して、2テイクかな、録りました。空があって、雲があって、太陽があって、町が広がっているところで。そのあと、もうすこし響きのある、ビルの階段に移動して録音しました。歌い終わった瞬間にバイクがブーンと走ったり、誰かがちょこっと間違えて笑ったりしながら、とってもいい歌が録れた。

藤田 届いた音源からはそんな過酷な炎天下だったとかは伝わってこなくて、とても風通しのよい音が聞こえてきたから、その話は面白いですね。いわゆる合唱みたいには聞こえなくて、一人一人の声が聞こえてきて嬉しかった。いい意味で不揃いの感じとかも。

原田 ね。ひめゆりの女の子と同じ歳ぐらいの女の子たちも、歌いにきてくれたんですけど、走り回って遊んだり踊ったりしてて、みんなほんとにかわいい。藤田くんのセリフにある「あの頃の未来は、今」ということを、思いましたね。時間がすべて同時にあるような。――そう、そのあと綾羽さんが「一高女」に通っていたというおばあをわざわざ呼んでくれたんです。

藤田 ああ、来てくれたんだ?

原田 翁長安子さんという方で、録音がおわるぐらいの時間に合わせて来てくれて、いろんなお話を聞かせてもらいました。コロナの前までは時々ピースホールに集まって、同窓生で合唱してたんだそう。「ひめゆりの舞台をやってくれるなら、”相思樹のうた”はやってね。だいじな歌だから」って言われて、「あぁ、藤田くんが言ってた曲だ」って思った。――今回の『cocoon』は、藤田くんたちが、事実や史実をほんとうに丁寧にシーンに含めていっていて。

藤田 いやいや。橋本さんや青柳、古閑ちゃん(制作)が熱心に傍にいてくれるからできていることです。

原田 うん。音の方も、ひとつひとつの場所にコネクトしていくような作業が続いてます。

藤田 僕らは22日から沖縄に滞在してたんだけど、宿も沖縄師範学校、一高女の近くに取ったんです。宿の位置を当時の地図と重ねて見てみると、陸軍墓地だった場所あたりでした。そうそう、それで、その昔の地図を眺めていたときに気づいたんだけど、近くに養糸試験場や絹糸工場みたいなのがたくさんあって、そういう施設にひめゆり学園が囲まれてたの。

原田 今日(マチ子)さんは知ってたのかな?

藤田 ね。偶然だったらすごいなと思って。今回の滞在は、ほんとに点と点が線でつながった感覚があったんです。今まではどこへ行くにも全部車で移動してたけど、今回はなるべく時間をかけて歩いてみたのね。

原田 みんなで? 歩いたんだ。

藤田 伊原第三外科壕があったひめゆり平和祈念資料館から、近くにあったいくつかの壕、丘陵を経て、荒崎海岸まで歩いて。さらに荒崎海岸から、喜屋武岬まで歩いて。そこでちょうど日が落ちたんだけど、今言ったコースを2時間くらいで歩けたんですよ。それくらいの、歩くとしてもなんてことのない距離だったんだけど――丘があって、丘を越えたところに荒崎海岸、アダンの茂みを行くと喜屋武岬――この距離感がやっと足で掴めたんですよね。

原田 汗とか、息がきれる感じとか、体感できると違うよね、きっと。

藤田 あの頃を想像しながら歩いていると当たり前に気付くんですよ、こんなにするする歩けなかっただろうなって。歩けるわけなかっただろうなって。背の高い草は燃やされて荒涼としていただろうし、丘も燃やされてはげ山みたいになっていたらしいし。逃げろとか隠れろとか言われても、もう隠れる場所もほとんどないような道なき道を、どうにか砲弾の音を聞き分けながら行ったんだろうなって。今はこうして、あの道を普通に歩けていることがむしろ不思議だし、普通に歩けるわけがなかったあの頃と照らし合わせながら足を進めていると、やっとつながったというか。

原田 地図上のことじゃなくて、足でね。

藤田 そうそう。それが僕の中ではすごくよかったですね。

藤田 それで、その次の日が慰霊の日で、平和祈念公園に行って。僕らもしばらく式典には行けてなかったんだけど、今年は3年ぶりに首相が参列するってことになっていたからか、警備の厳重さとか厳密さが今までとレベルが違うと感じたし、一般の人が入れるエリア、歩けるルートもだいぶ狭まって、公園内の雰囲気もなんかかなりピリついていたように思いました。

 今年は小学校2年生の子が平和の詩の朗読をしたんだけど、その声から受け取ったものの大きさとは別に、この幼い子にこういう詩を書かせてしまうこの世界は何なんだろうなってことをふいに思ってしまったんです。

――今年の「平和の詩」の朗読は、僕はすごく胸を打たれたんですけど、胸を打たれると同時に考えさせられますよね。胸を打たれたのはきっと、その子の言葉に無垢さや無邪気さを感じたからなんですけど、大勢の大人たちの前にこどもを立たせて、無垢な言葉を語らせて何か感じさせるというのは、どういう構図になっているんだろう、って。そもそも戦争は大人が巻き起こすことであって、こどもの無垢さや無邪気さを通じて何か感じ取ったり感動したりするべきことではなくて、大人としてちゃんと思考するべきことなんじゃないか、って。

藤田 僕も一方では感動しているし、自然と涙が流れそうになったのも事実なんだけど。でも、あの幼い子があの壇上に上がって、ああ書かれた詩を読まなくちゃいけないというのは、本来ならそうじゃない方がいいとも同時に思ったんですよね。戦争をはじめ、暴力というものがそもそもなかったら、あの詩は生まれていないので。というか、戦争さえなければ、あんな式典だってないし、あんな壇上だって用意されてないんですよ。『cocoon』だって、戦争さえなければ生まれていない。生まれていない方が、世界にとってはその方がいい、正常だとも思うんですよ。戦争のない世界だったら――ただ、それがあってしまったから、『cocoon』も、あの幼い子の詩の朗読も生まれてしまった。

 その直後に登壇した首相の表層的且つ矛盾した言葉を聞いていても、知事の平和宣言の中の「ウクライナ」って言葉を思い返してみても、たった現在のこの世界のことを「これが世界だから」と大人が子どもに胸を張って言えるんだろうか、ってことをやっぱり考えてしまうんですよね。そして同時に、今年の『cocoon』はどういう響きになるんだろうって。大人たちが作った世界のからくりに巻き込まれていく子どもたちを描いていくわけだから。

――郁子さんは、今年の6月の滞在中、栄町市場以外にも出かける時間はあったんですか?

原田 さっき言いきれなかったんだけど、合唱を録音した6月18日は、「解散命令の日」で、栄町市場の飲み屋街を録音したあとに、東くんと陸軍病院だったガマから海に向かって、夜中から朝にかけて、音を録りにいきました。

藤田 なんか聞いたんですけど、その日、郁子さんがドライバーしてたんですよね?

原田 うん。東くんがやってることを間近にみて、これは時間がかかるし、根気もいるし、全部一人でやるのは大変だなと思って。東くんが「止まってください」って言ったら、止まってすぐエンジンを切って静かにして、鳴ってる音が良さそうだったらレコーダーとマイクをセッティングして、録音がおわるまで、真っ暗な中で息を潜めていましたね。

藤田 東さんに同行した時に思い知ることになる、あれですよね。地獄だよね、あれ。昔観た『世にも奇妙な物語』で、周囲のあらゆる音が気になってしまう男の話(渡部篤郎さんが出演していた『Be Silent』という作品)があったんだけど、それを思い出すわ。

原田 私が「この音とかどう?」って聞いても、東くんなりの判断があるから、「いい」って思わないと録音ボタンは押さない。季節ごとに、朝、昼、夕方、夜と時系列に、すず虫とか、鳥とか、蝉とか、鳴っている音を収集していくんですけど、いろいろ録りきれていない音もあって。「昼間の蝉」が録りたいけれど、どうしても飛行機や車の音が混ざり込んでしまう、ということで久高島に渡りました。最初に藤田くん、今日さんたちと行ったとき、島の突端の「カベール岬」に行ったよね。何年かぶりに行けて、思い出したんだけど、「とぅ まぁ でぃ」をケータイに吹き込んだのは――。

藤田 そう、久高島だよね。

原田 うん。

藤田 あのとき、ふいに郁子さんがあの海岸で立ち止まってたのを憶えてる。

原田 「ああ、ここだったんだ」って思い出した。――見るものぜんぶあまりにも美しくて、沖縄の人たちにとって、久高島はどういうものなんだろうなって。想像するしかできないけど、あの頃も、アメリカの軍艦がひしめいてる海の向こうに久高島が見えたかもしれないし、夜には星が瞬いていたかもしれない。――「イザイホー」(久高島で12年に一度おこなわれる祭礼)のCDを藤田くんに教えてもらったり。

藤田 宮里千里さん(祭祀採音者、宮里小書店店長)の『琉球弧の祭祀-久高島 イザイホー』だよね。

原田 その沖縄滞在の前後に、細野(晴臣)さんとご一緒する機会があったんだけど、「Roochoo Divine」という曲の中に「弥勒世(みるくゆ)」という節があったり。「戦争」のずっと前からあったもののことも、みていたいって思う。――キャストのみんなも、ようやく沖縄に行くことができたね。

藤田 コロナ禍で予定していたけど行けないの連続だったし、初めて沖縄に行く人もいたと思うから、行けてよかったんだろうなと思います。

原田 今回、最後のサンとマユのシーンに「曲を作って欲しい」って藤田くんは言ってくれて、とっても嬉しいんだけど、言葉をどこまで入れるか、まだすこし悩んでる。こういうようなこと、書いてみたんだけど――。

藤田 (渡されたケータイの画面を見て)ああ、これは本当に素晴らしいですね。考えていることと一致する部分が多いし、ラストシーンを描く上でここにヒントがある気がする。あとで僕に送ってください。

原田 うん。自分の曲が鳴るってことに、まだ実感が持てないというか、ほんとにそれでいいのかなって、ずっと考えてる。なんていうんだろう、もう「自分が」とかじゃないからね。そのシーンがどんなふうになるといいかな、ということだけで。今回、音響で入ってくれている田鹿(充)にも、劇場用のMixを含めてかなり手伝ってもらってる。

藤田 今、ちょうど解散命令、つまりみんながガマから出て離散するところを作ってるんだけど、そこにどんな声が、歌があるのかはやっぱり難しいなあと思っているんです。バランス感を欠いてしまうと、簡単に感情そのものに流されてしまいそうになるシーンの連続だし。ただ――ラストに海まで走るところに関しては、これはもう僕だけの意志じゃなくて、青柳はきっと、最後は郁子さんの声とともにありたいんだと思うんです。

原田 ああ、そっか。

藤田 郁子さんの声っていうのは、歌ってだけじゃなくて、郁子さんが考えた歌詞とか、郁子さんが歌ってきた言葉も含めた、郁子さんという音そのもののことだよね。その音がないと最後にひとりで生き延びるってところに、辿り着いていかないのかもなあ、って。本当にひとりぼっちにさせてはいけない、というか。だから、「新曲」がほしいというよりも、青柳の隣りに在ってほしいという。そういう感じなんだよね。

原田 そっか、うん。

――今の話もふまえて、最後に伺いたいことがあって。今年の『cocoon』に向けて、おふたりはそれぞれ史実を調べたり、実際に現地に足を運んだり、現実や事実みたいなこととのフックが前よりずっと強くなっていると思うんですね。ただ、『cocoon』を上演するっていうことは、77年前に起きた出来事をそのまま伝えるわけではなくて、そこにオリジナルの表現が書き足されるわけですよね。そこに対して、おふたりはどんなことを思い描いているんでしょう?

藤田 僕の中では、そこは結構はっきりしてて。近頃のいろんなニュースを聞いたり、戦争にまつわるいろんな資料を見返したときも、頭ではわかるんですよ。でも、それをしたところで身体感覚としてはまだ遠くて、満足はできない自分がいて。自分はどこまで、身体感覚の中でその出来事を掴みとって、向かい合えるか。自分の表現というのは、自分の身体と一番近いところにあるものだと思っているんだけど、「一番近い」という感覚に辿り着くまで、本当にいつも苦労するんですよね。

 自分は、自分が舞台上に立ち上げる空間性と身体性のなかで、過去に実際に起こったこと、今この世界で起こってること、77年前の戦争のこととも対峙して捉えたいんです。そうしないと、ほんとうのところでは全然わからない。例えるなら、恋のようなもので。傷ついて初めてわかるだなんてよく言うよなって思うけど、でもそれはある意味本当で、自分のことにならない限り人って傷つかないですよね。本当のことにならない。自分のことになって初めて本当に傷つくし、恋だと気づくみたいなことで。これは言葉にするにはとても難しい感覚なんだけど、今は必死に自分の身体感覚にあらゆるダイヤルを合わせる時間を過ごしています。自分自身が「自分の表現を誰よりも見たい、そして自分の表現を目の前にした時に誰よりも傷つきたい」という欲求をがむしゃらに掴んでいきたいんです。

 ツアーの当日パンフレットのテキストを書いたときにも思ったことなんだけど、郁子さんと過ごしたこの10年間を思い返してたんです。ここまでの郁子さんの声とか、出演するひとりひとりの声をいちいち憶えてるんだけど、その瞬間、瞬間に音が見えた感覚があったんですよね。聴こえてきたって感覚だけじゃなくて、見えたんです。それは「『cocoon』はこういう舞台になる」ってことが最初から見えていたってことにもつながるんだけど。10年前からずっと見えていたんですよ、こうなることが。それを現在もずっと見ていたいんだと思います。音が伴った、全ての光景を。現在のことも、過去のことも、未来のことも、ここからずっと見つめていたい。だから、郁子さんをずっとこんな過酷な、心身ともに消耗するようなモチーフに付き合わせているんだろうな、って。

原田 初めて藤田君から『cocoon』の原作を手渡されて、音楽の依頼をもらったときのことを、今思い出しました。「海に出たときに、郁子さんの声が鳴って欲しい」と言われたんですよね。ずっと一貫してる。

藤田 あの最後の海に、青柳がいて、郁子さんの声が在って、そこまでの道で別れたみんなの姿が駆け巡る。あの光景は、もう原作を初めて読んだ時にイメージできていたんだと思う。

原田 そうだったんだね。すごいな。――さっき「音は空気」っていう話をしたけど、今を鳴らすっていうことは、「これまで」を吸って、吐く。 はぁーって、息を吐いて、吸って、呼吸する。溜息をついたり、声にして誰かに伝えたり、歌を歌うことも、その循環は「これから」に向かっていて。すごく先のことはあまりにもわからないから、ほんのすぐそばの未来、まずは自分の半径2メートルぐらいの世界で、息を吸って、吐いて、息を吸って、吐いて、継いでいく。今日も無事ですようにって――藤田くんたちと作業していて、おもしろいなと感じるのは、一緒に変化していけるっていうこと。たくさんの人が関わっている現場だけど、いつも「ほんとにそれでいいのか?」って問いながら、変化しつづけてる。前のインタビューで藤田くんが私に「微調整しつづける人」って言ってくれたけど、まさに藤田くんもそうで。テキストのことばひとつ、細やかな演出ひとつ、調整しつづけてる。舞台っていう、生身の人間が集まってつくる――その時間にそこにいないとみることができない、ライブな現場で、自分は録音物として関わるわけなんだけど、じゃあ、どんなことができるのかなって思うと、ほんの少しだけ視点を変える、とか、ほんの少しだけ先のことを思う、とか、そういうことなのかもしれないなって。やってもやっても終わりがないような気持ちにもなるけど、すこしずつでも良くなるようにって、小さく小さく積み重ねていくしかないのかなって気がしています。