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出演者の皆は、稽古場の床に座っている。皆と向き合うように、藤田君も床に座る。「今日、ちょっと寒くない?」と藤田君がつぶやく。「床が冷たいね」と誰かの声がする。「やっぱり、今日寒いよね」と、藤田君は確かめるように言った。

 

2月18日。この日は久しぶりに最低気温が氷点下となり、日が昇っても気温はさほど上がらなかった。

 

「この1年で、コロナ禍で演劇の鑑賞のしかたも変わって、自分のキャリアの中でも特別な年だったなと思うんだよね」。藤田君はそう話を切り出す。「演劇って何なのか、いつもよりも考える年になって。自分の中で言葉を変換していくタイミングって、こうやって大きなことが起きたときなんだけど――コロナ禍になる前から、演劇をやりながらも、演劇って形態が不思議でしょうがなかったの。演劇って、その日のその時刻の上演のチケットを買って、その時刻に合わせて何百人も観にきて、何十人のキャストがいて、その後ろにも何十人とスタッフがいて――それって、コロナとか関係なしに、ものすごくアナログだと思いませんか?」

 

出演者の皆は、うなずくでも首をかしげるでもなく、じっと藤田君の話に聞き入っている。映像作品であれば、もしもそれがソフト化されていたり配信されていたりすれば、どんな場所にいても観ることができる。でも、演劇は劇場に足を運ばなければ観ることができない。

 

「最近考えているのは、『観劇する』って言葉と、『鑑賞する』って言葉のことで。演劇の世界には『観劇』って言葉があるけど、これを『鑑賞』って言葉に置き換えると、結構すっきりするなと思う部分があるんですね。たとえばさ、上演中に寝ちゃうお客さんっているじゃん。その人がいびきをかいて寝ちゃってたとして、それは観劇ってレベルのマナーとしては良くないことなのかもしれないけど、その人だってお金を払ってチケットを買ってくれて、時間をかけて劇場まで足を運んでくれてるわけだよね。だとしたら、鑑賞ってレベルで考えると、どう鑑賞したっていいと思うんだよ。鑑賞であれば、いきなり立ち上がったっていいし、つまらないと思ったら出て行ってもいいわけだよ。でも、観劇って言葉で捉えようとすると、どんどん客席を締めつける方向に向かっちゃう気がするんだよね」

 

藤田君が『観劇』と『鑑賞』の違いについて考えるようになったのは、ひとつには、こども向けの演劇作品を作り始めたことがきっかけになっているのだろう。大人の観客の多くは、最初から最後まで、じっと客席に座って作品を観る。でも、こどもたちはもっと自由に客席で過ごしている。飽きずに最後まで見てもらうにはどうすればいいのかと思案したことが、大きく影響しているのだろう。でも、こどもたちだけでなく、こどもたちを連れて劇場にやってきた大人たちの姿も、考えるきっかけとなったようだ。

 

「こども向けの作品に着手して、それで全国を巡ったときに、いきなり客層が変わった感じがしたんだよね。どう言えばいいんだろう。なんか、プラネタリウムにこどもを連れてくるかのように、お父さんたちがこどもを連れて劇場にやってきて、こどもたちを芝生席に放って、お父さんは客席でガーッて寝てて――それを見たときに、めちゃくちゃ嬉しかったんだよ。『それもアリなんだよな』と思ったんだよね。それまでほとんど演劇を観たことがなかったであろうお父さんが、最初は客席で寝てたんだけど、『あれ、これ、面白いんじゃない?』みたいな感じで、途中から食い入るように観てくれてたりして。それってめっちゃ嬉しいことだと思ったんだよね」

 

あれはたしか2年前の冬のこと。『書を捨てよ町へ出よう』の札幌公演に先駆けて、藤田君は札幌にある書店でトークイベントを開催した。会場となったのはイベントスペースのように仕切られた場所ではなく、エントランスホールで、そこには藤田君のトークを聞きにきたお客さんだけではなくて、そこにあるベンチで休んでいる人や、ウトウト眠っている人の姿もあった。あの人たちにも、自分の作品を観てもらいたい――そんなふうに藤田君が語っていたことを思い出す。

 

「『cocoon』を上演するたびに、誰がこの作品を観劇しにくるんだろうって考えるんだよね。たとえばさ、学校の図書館にある『はだしのゲン』のゾーンって、めちゃくちゃ近づきがたくなかった? 『はだしのゲン』を、毎日どんな時間でも読みたいと思える人っているのかな?」

 

「うちの学校では結構人気でした」と誰かが言う。

 

「そっか、そういう人もいるのか」と藤田君が笑う。「でも、僕はちょっと構えちゃうんだよね。演劇だと特に、チャンネルを変えられないじゃん。たとえばあるテレビ局で戦争のことを放送していたときに、『ちょっと今の自分は見てられないな』と思ったら、チャンネルを変えられるよね。でも、演劇には鑑賞者の自由がなくて、劇場にきたらそれを観るしかないって状態になる。僕が観客だったら、1週間ぐらい前から体調を整えていかないと、『cocoon』を観れないと思うんだよね。多くの死を扱っているわけだから、ライトに観られる表現じゃない気がする」

 

藤田君は言葉を探りながら話を続ける。

 

「体力を使って、演劇を鑑賞して、またおうちに帰っていく。一体どうやって鑑賞して、どう立ち止まって『cocoon』って時間に触れるのか――。この作品は去年の夏に上演されて、もう終わってたはずの公演でもあるんだけど、こうして先延ばしになったことで、改めて考えてるんだよね。自分の中で観劇と鑑賞ってことについて考え方が変わってきてて、そのあとに『cocoon』が上演されるわけだから、全然違うことになるんじゃないかと思うんだよね。来年の上演は、『観劇してください』ってスタンスよりも、鑑賞してもらうってことが重要な気がする」

 

藤田君が考えていることは、ひとつには、作品がどこまで遠くに届きうるかということなのだろうか。話を聞きながら考える。観劇に出かけることのハードルが上がった今、ひめゆり学徒隊に着想を得て描かれた『cocoon』を観ようと劇場まで足を運ぶ人は、作品をつくる人たちと問題意識を共有している人たちが多くなるだろう。その外側にまで作品を届けるためにはどうすればよいのか――。

 

「最近よく話すんだけど、この社会のことを、僕が一番わかってると思ってた気がするんだよね。だから観劇しにきた人たちに対して、『今の世界ってこうだから』ってことを、突き刺すように言ってた気がする。観劇してくれてる時間をスペシャルなものにするために、あえてわかせるような舞台を作ってた気がするというか。でも、『観客にわからせようとする必要なんてあるのかな?』って考えるようになったんだよ。今はコロナ禍で、観劇することがそもそも大変になってるのに、そのハードルを越えて観にきてくれた人たちに対して、突き刺すような言葉を言うのは違う気がしてるんだよね。『藤田さん、何をいきなり強めの言葉を言ってるの?』みたいになる気がする。つまり、劇場に足を運んでくれる人たちは、僕以上にこの世界のことを見てる人たちなんじゃないかなって思い始めたんだよ」

 

出演者の皆は、黙って藤田君の言葉に耳を傾けている。外から救急車の音が聴こえてくる。音は次第に近づき、また遠のいてゆく。

 

「観劇と鑑賞の違いは、共有と共感の違いでもあって。昔の僕は、ある程度共感を迫ってた気がする。戦争ってこんなに怖いものなんだって共感を、客席に迫ってた気がするんだよね。『今ぼくはこう思ってるんだけど、どうですか?』って、共感を迫ってた気がする。でも、表現って、共感を迫るものじゃなくて、共有するものなんだと思い始める。たとえば沖縄戦ってモチーフを描いたときに、共感を迫った時点で壁ができる気がしてて。でも、共感を迫らなくたって、たとえば上演時間の2時間なら 2時間は共有するわけだよね。美術作品とかも、その作品を通り過ぎる人もいれば、じっくり観る人もいるけど、それって鑑賞してるだけだし、共有してるだけだと思うんだよね。それが『観劇』って言葉になると、観客も何か共感したいし、上演する側も共感させたいって関係になりがちで。一年経ったらまたモードが変わってるような気もするんだけど、もしも今『cocoon』を上演するんだとしたら、鑑賞ってレベルで共有していく場をつくるって方向に向いていく気がする」

 

こうして藤田君が話していたときから10ヶ月が経ち、2021年も終わりを迎えつつある。気づけば『cocoon』が上映される夏は半年後にまで近づいている。2022年に上演される『cocoon』は、どんな作品になるのだろう。

©mum&gypsy cocoon