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「××さんの場合、おじさんがひとりでいるところを見たら切なくなるんだよね?」

前回に引き続き、藤田君は切なくなる瞬間について話している。

「そう。おじさんがひとりでいらっしゃる姿を見ると、寂しくなっちゃう」

出演者のひとりが答える。

「それは――どういう感情なんだろう?」

「自分でも不思議なんだけど、前世で何かあったんじゃないかと思いたくなるぐらい、寂しくなっちゃうんだよね。おじさんがひとりでおにぎり食べてる姿とか見ると、一番寂しくなる」

「お父さんとか、知ってるおじさんはどう?」

「どうなんだろう。お父さんだと、ならないかな。でも、近所のおじさんだと寂しくなっちゃう」

「今の話に、共感できる人っている?」

藤田君が皆に問いかけると、ぱらぱらと手が挙がる。

「ちょっとわかるかも」と誰かが言う。「電車とかに乗ってるときにさ、外が暗いと、窓に自分の姿が写るじゃない? そういうときって、つい自分の顔を見ちゃうじゃん。ふと見たら、隣のおじさんも自分の姿を気にしてるのが見えちゃうと、胸がきゅっとなる」

「××さんは?」

「私の場合、平日にスーツ姿のおじさんが、ホームの椅子に座ってたり、ぼーっと佇んでいるのを見ると、キュンとなる」。別の誰かが言う。「ちょっと背中を丸めて座っていると、何でこの時間帯にここに座っているんだろうって考えてしまう」

おじさんに対して切なくなるという感情は、どこからくるのだろう。おじさんのひとりとして考えてみる。おじさんの居場所は会社や家庭にあって、そこからはみ出した状態を目にすると、何かが損なわれているように感じてしまうのだろうか。

ただ、「切なさ」という感情は、そんなにロジカルに説明がつくものでもないはずだ。そうでなければ、「前世で何かあったんじゃないかと思う」ほどには切なくならないだろう。切ないという感情は、一体どこからやってくるのだろう?

「これもやっぱり、主におじさんの話になっちゃうんだけど、ステレオタイプな考えを持っているおじさんっているじゃん」。ひとりがそう切り出す。「たとえば、(元首相の)森さんとかさ。ああいう人が、ステレオタイプなことを言い出したときに――その発言自体は問題だと思うし、絶対駄目な発言だと思うんだけど、そのステレオタイプが培われるまでの人生を考えちゃうんだよね。『今の発言は駄目だよ』って注意するのが正しいのはわかるんだけどさ、私はもう、そのステレオタイプを持ったまま帰ってもらおうと思っちゃう。その人が帰ったあとで『さっきの発言はないよね』とは話すんだけど、その場は『ですよねえ』って聞き流してしまう」

「今の××さんの話はさ、たしかに、根深い話でもあるよね」。考えを巡らせながら、藤田君がゆっくり話しだす。「何か問題あることを言ったとして、『その発言は違いますよ』と言ったとしたってさ、結果だけ見ると、相手は何も変わってないんだよね。ほんとうに何にも変わってないし、変わる気もないでしょ、あの人たち。それでも追及していかなきゃいけないと思うし、僕もあいつの発言はとにかく怒りが収まらないけどさ、どれだけ批判されても何も変わってないじゃん。そうやって生きてきた感じだし。これは、ちょっと答えがないな。でも、××さんがそう感じる対象は、おじさんなんだね?」

「そう。なんだろうね、おじさんって。そのおじさんがステレオタイプに満ちた考えを持っていたとしても、おじさんが生きてきた人生によって培われたものだから、『その考えは間違っている』って言い出せなくて。だから――きっと冷たい人間なんだと思う。だから、おじさんが『その価値観はもう古いんだ』って若い人たちに言われているところを見ると、切なくなっちゃう」

「今の話で思い出したけど、森元首相が問題発言をしたあと、報道陣が娘に話を聞きに行ってたじゃん」。藤田君が話を続ける。「そこでさ、『父が問題を理解するのは年齢的に難しい』って、娘が答えてたんだよね。や、や、難しいで済まされるの?って思ったし、考え方自体が駄目だし、ああいう問題発言をした以上は組織委員長をもちろんやめるべきだと思うんだけどさ――ああやって娘のところにまで報道陣が押しかけるのを見ると、ゴールがない切なさを感じるんだよな」

ステレオタイプな考えは批判されるべきだし、是正するべき価値観は年齢を問わずアップデートするべきだと思う。でも、自分の家族という規模で考えたときに、自分はどこまで物申せるかと考えさせられる。

あきらかに差別的な発言や、敵意を剥き出しにした発言を目の前でしている人がいたとしたら、「その考えは間違っている」と指摘する人間でありたいと思う。では、誰かのことを傷つける発言でなかったとしたら、どうだろう。もっとささやかな態度だったら、どうだろう。

「僕は10歳から演劇をやってて、夜もずっと稽古だったから、晩御飯を家族と食べることがあんまりなかったんだよね。それが高校生のとき、久々に家族4人でごはんを食べる機会があって、その日は豚丼が出てきたの。でも、その日は母さんがすごく忙しかったらしくて、味付けを間違えたかなにかで、すごいしょっぱくて。その豚丼を食べたとき、父さんと弟が目を合わせて笑ったんだよね。その瞬間に僕がブチギレちゃって、そこにいる全員のそのしょっぱい豚肉をすべて取り上げて、泣きながら平らげた記憶があるんだよ。これはある意味でいじめだなと思ったから。母さんも仕事をしているのに料理を任せきりになってるという現状があるなか、男同士で笑い合って――いつからこの家族はこういうことがまかり通るようになってたんだ、って。こんなこと、ぼくが知っている以前の食卓にはなかったけどね、って」

藤田君からこのエピソードを聞くたびに、胸が一杯になる。

「僕らの世代だと、小学生の頃にいじめが社会問題になってたじゃん。あの当時、僕は一般的な正論としての『いじめは許せない』というのとは違うニュアンスで、いじめをするような奴ら、つまり集団に違和感があったんだよね。そこまでやらなくていいのに、あるラインを踏み越えて執拗に誰かに対して意地悪をするというふうに振り切れてしまうのは、個人じゃなくて集団なんだよなあ、って――家族っていうのも一つの集団だけど――誰か標的がいて、教室にどんよりと漂うあのうすら笑ったような雰囲気がすごい苦手だったんだよ」

皆、黙って藤田君の言葉に聞き入ってる。ちょっと、僕ばっか話してて申し訳ないんだけど。そう断りながらも、藤田君は話を続ける。

「戦争っていうのも、ある種の集団ヒステリーでもあると思うんだよ。どう考えたっておかしな状態だよ。だってさ、こどもたちが兵士の片腕や片足をガマの外まで捨てに行くとか、ひとりひとりの顔が見えていたらそんなことさせるわけがないし。でもそういう事実があるということは、ひとりひとりという単位ではもう捉えていないし、“集団”に強いていた力や、“集団”のなかの雰囲気が作用してないと、そんなことさせること自体が無理だと思うんだよ。そこには戦争教育によって段々麻痺させられていった感覚があったし、あの時代の日本が国をあげて、戦争へ向けて普通の感覚を大きく振り切って異常なことがまかり通るようにしたんだろうね。でも、当時の手記を読んでいると、やっぱり『この状況はおかしい』と思っていた子もいるし、ひとりひとり感じ方は違っていたはずだと思う。今日はいろんなおじさんの話が出てきて、おじさんってモチーフを面白いなと思い始めちゃってるけど、こどもたちからしたらおじさんに当たる年代の人たちが、ガマの中に兵士として大勢いたわけじゃん。というか、全員おじさんじゃん。そこを細かく見ていくと、兵士の中でもいじめられてる人だっていただろうし、ちょっと除け者みたいにされてる人だっていたかもしれなくて。こうやって皆と作業してて気づいたけど、除け者にされてひとりで座ってる兵士を見たときに、『あのおじさん、切ないな』と思ってた子がいた可能性もゼロではないと思うんだよね。でも、“戦争”って言葉で当時を振り返ろうとすると、そういうグラデーションが全部消えちゃってる気がするんだよ」

戦争が始まったのは、今から80年前の12月だ。それが遠い昔になってしまうと、そこに存在した一粒一粒の感情は、少しずつ忘れ去られてしまう。“戦争”という言葉によって塗りつぶされてしまった、その一粒一粒の感情を、藤田君は演劇を通じて想像しようとする。

©mum&gypsy cocoon