、八月が終わろうとしている。今年『cocoon』が公演できていたなら、東京・埼玉・上田・北九州・伊丹・京都とつづいたツアーは、いまごろ那覇の劇場にいたはずだった。今年の『cocoon』はどういうものになっていただろう、というのは延期が決まった時点であまりかんがえないようにしていた。もちろん、さいしょからさいごまでのプランはあった。何年もまえから三度目の『cocoon』へ向けて話し合いを重ねていた。けれども今年はどうやら叶わないだろう、と徐々にそうなっていったなかで、今年の夏に実現させるというよりももうすこしさきの時間を見据えていくことにシフトしていったのだとおもう。そもそも『cocoon』というものがたりに終わりなんてなかった。公演が実現して駆け抜けたって、その千秋楽に『cocoon』が終わることなんてなかったから再度、作業を繰り返しているのだし。リニューアルしながら“現在”という時間にどう当てはまっていくか、ということを常にかんがえつづけているのが『cocoon』という場だとおもっている。そう、ぼくにとっては大切な場なのだ、『cocoon』は。なので、今年とか来年とか再来年とか、じつはそのこと自体が問題なのではない。いつだってずっとぼくのなかには『cocoon』が在って、あの世界のあの季節の、あの湿度のなかをみんなは走りつづけている。もしくは、歩いている。校舎のなかを。休み時間、教室から教室へ。廊下を、歩いている。なんともない日常の風景と、そしてなんの前触れもなくそれが一変する瞬間。そんな様子がいつだってずっと、もう何年も。ぼくのなかに在りつづけてリフレインしている。だから、延期になったってなんだって、終わることのない『cocoon』の世界を生きていることに変わりはない。しかしそのうえで―――――
、今年の『cocoon』はどういうものになっていただろう。今年の夏、実現できていたとしたら。
、部屋のなかで、かんがえている。どういう音のなかで、どういう感触を持って。ぼくらは、歩いて。そして、走っただろう。旅にでたぼくらは、どこでだれと出会って。なにを想っただろう。だれかのなにかを、ぼくらは変えることができた? でも、それは叶わなかった。
、どうしたって、やはり想像するのだった。空想の繭のなかで。
2020.8.29 藤田貴大
マームとジプシー『cocoon』を再訪する。(橋本倫史)