――沖縄にいらっしゃるのはいつぶりですか?
今日 ほんと、前回の『cocoon』の沖縄公演以来です。
藤田 じゃあ、2015年ぶりだ。
今日 7年ぶりで、懐かしい感じもあるんですけど、日帰りなので慌ただしいです。
――空港についてすぐに劇場にいらして、沖縄公演の初回をご覧になって。今日さんは東京公演の初回も観劇されてますけど、あらためて沖縄でご覧になっていかがでしたか?
今日 沖縄で観るって、私側としてもすごく緊張するんですよね。やってるあいだに誰かが立って、「もうやめろ!」って叫ばれたらどうしようって、いつもビクビクしていて。でも、皆さんちゃんと表現として受け入れてくださるので、ホッとしてます。あと、ざっと客席を見た感じだと、こどもや学生さんが来てくださっていて嬉しかったですね。
藤田 制服を着ている子たちもいましたよね。
今日 そう。「地元でやるから観に行こう」と思ってくださっているのかなって、嬉しかったです。
藤田 今年は2015年とも違う緊張感が確実にあったなと思っています。戦争って響きがもう全然違う。今日さんが言うように、特に『cocoon』は――那覇に限らず、ですけど――上演するときはいつも「途中でとめに入る人がいるんじゃないか」って、想像をしてしまう。それが現実になる悪夢も、ツアー中はよく見るし。でも、さっきの回は前のめりに観てくれてる人が多かったなって、客席の一番後ろから見てて思ったんですよね。
――おふたりが感じる緊張感の根っこにあるものは、何なんでしょう?
今日 それは原作のときも非常に怖かったんですけど、史実を取り入れているとはいえ、やっぱりフィクション作品なんです。そこを理解してもらえるかどうかというのがまずあるんです。私や藤田さんは表現する側だから、作ってるときは「そんなの簡単に乗り越えられるだろう」と思っちゃうんですけど、受け手が「ここ、史実と違うじゃん」ってことが一度気になり始めると、あれも違う、これも違うと、どんどん答え合わせのような見方になる人もたまにいるんです。そういう人に遭遇すると、作り手側として急に固まってしまう。そうやって金縛りみたいになって、作品が描けなくなるってことを何度か経験しているので、その状態に陥るのが怖くてドキドキしちゃうんです。
藤田 僕は、今日さんみたいにひとりでペンを握って闘っているわけではないんですよね。役者さんやスタッフさんと話し続けているし、今回だったら具体的に史実と照らし合わせてくれた橋本さんや古閑ちゃん(制作)、青柳との対話があって取り組めているから、さっきの那覇公演初回の緊張感っていうのは皆の中で生まれて、共有できたことだと思うんですよね。だから今日さんがとにかくひとりでこれを描き切った頃のことを想像してみても、測り知れなくて。
那覇に限らず、というのを前置きにしても、『cocoon』を沖縄で上演するというのは、他の土地で上演するのとはやっぱり明らかに違ってくる部分はどうしたってありますよね。例えばこの場所の土をたった今掘ったとして、もしかしたら沖縄戦にまつわる何らかの痕跡、つまり幾つもの死が出てくるかもしれない。史実の重なり/連なりが、未だに直接的な存在感を持つ土地で上演するわけだから、そういう意味では必然として、チームに緊張が走りますよね。
それに加えてコロナ禍で、常にリハや公演の実施が危ぶまれている状況は変わらずで、今年はいつにも増して役者さんのメンタルを整えていくための言葉選びとかコミュニケーションは大変だったんですよね。だから、いろんなハードルを皆は――その時その時のテーマを持って――話し合って、よく乗り越えてくれたなって思う。そういう意味でも、今回の『cocoon』は役者さん、スタッフさんとじっくり二年間、話す時間を持ててよかったなあ、と。
――今回の『cocoon』は、3度目の上演です。原作者である今日さんにとって、自分とは違う誰かが、自分が生み出した作品に取り組み続けているっていうのは、どんなことを感じていますか?
今日 再演のたびに、すごく良い機会を与えられてるなと思うんです。漫画で戦争の話を描いて、そのたびにやり残したことがあって、「それは次作で取り組もう」という試みは毎回やっているんです。ただ、完全に同じ作品をやり直して、「ここを直す」とか「ここをアップデートする」ってことはできないことなので。再演のたびに私自身も読み返して、「今だったらもうちょっと違うふうにできる」とか考えていけるので、『cocoon』を描いたときで自分の時間が止まらない感じをいつももらっていて。漫画って、描いて、そのあとは忘れちゃうんですよ。『cocoon』でも、こんなこと描いたんだっけみたいなコマがあってびっくりするんですけど、自分でちゃんと振り返って、もう一回前に進んでいける機会をもらっているので、いつもありがたいです。
藤田 『cocoon』の文庫が出たのが、ちょうど再演した2015年ですよね。北九州での公演のときに、物販コーナーを整えていて、久々に文庫版のほうを手に取ったんですよ。単行本には未収録の「バースデー・ケーキ」って短編を、それこそ7年ぶりに読んで。もう読んだ記憶はなくなっていたのに、今年の『cocoon』で描いてる“あおい”のシーンはそれとそっくりなんですよね。
今日 ああ、たしかに!
――「そういえば、、、、、、こないだのさあ、、、、、、だれだっけなあ、、、、、、だれかの、、、、、、誕生日だったんだけど、、、、、、」と、“あおい”がある日の記憶を振り返るシーンですね。
藤田 あのシーンは僕が勝手に描いたわけじゃなくて、あおいちゃん自身のほんとのエピソードなんですよね。でもたぶんきっと、僕の潜在意識下には今日さんの「バースデー・ケーキ」が残っていて、それで「このシーン、ちょっと今日さんぽいな」と思いながら、あのシーンを作ったんだと思うんです。
今日 怖い(笑)。「バースデー・ケーキ」のこと、自分でも今思い出しました。
藤田 最近は特にいろんな出典の膨大なテキストを扱っているから、いつか読んだな、聞いたな、見たな、みたいに潜在記憶がただただ増えちゃって、注意しなくちゃって思うんですけどね。自分のアイディアみたいに表現しちゃっているけど、元ネタがあるじゃん、っていうのがたまにあるから。あのシーンは寄宿舎をイメージして、陣地構築に行くまでのことを描いてるんだけど、あのアングルさえも今日さんが描いたまんまなんですよね。あそこまで一致してくると、なんかもう!って感じで。
――それで言うと、今年の6月に皆と資料館に行ったとき、何気なく女子師範学校と一高女があった場所の地図を眺めていたら、学校のまわりが養蚕の施設だらけだってことに今更気づいたんです。今までは学校の位置にしか目がいってなかったんですけど、蚕糸試験場や蚕種製造所、郡是製糸の那覇支所が学校を取り囲むように並んでいて。
藤田 そうそう。7月に郁子さんと対談したときもその話になったんだけど、それって意識してたんですか?
今日 はっきり意識してたわけじゃないんですけど、ひめゆりのことはざっくりさらっているはずなので、考え始めた最初の段階では意識してたんだと思います。たぶんどこかで知って、なにかアイディアにはなったと思うんですけど、あらゆる資料に埋もれて、忘れているという。
藤田 作品に時間をかけて向き合っていると、記憶が何層にも重なっちゃって、そういう現象が起こるんですよね。資料館にも何回も足を運んでいるはずなのに、初めて知ったように思えることってたくさんあるし。自分の中で何周か回って、潜在記憶の中に紛れ込んでしまっているエピソードもかなりあると思うから。あとで、いちいちチェックしないと。でも、「サン」って名前は養蚕の「蚕」でいいんですよね?
今日 それはね、養蚕の「蚕」なんです。
藤田 太陽の「SUN」とは掛けてない?
今日 掛けてたわけじゃないんですけど、後になって太陽の「SUN」でもあるなと思ったり、昔の女性の名前としても「サン」はあるから、これはいけるんじゃないか、と。
藤田 10年も1冊の本と向かい合っていると、今日さんも絶対に考えていなかったであろうことまで掘り下げてしまうんです。それこそ、「なんで双子って設定が生まれたんだろう?」とかってことをふと思って、ぼんやり調べ始めると、双子の蚕が作る繭って糸が強いらしいというのを知ったりして。
今日 今日の公演には「双子の蚕が吐く糸は普通の蚕が吐く糸より強いらしい」って台詞があって、「そうなんだ」って、豆知識のように聞いてました。
藤田 それは「玉繭」って呼ばれてるんだけど。『cocoon』を再演するたびに実際に蚕を飼って、育ててみるんですよ。映像の素材にしたいというのもあるんだけど、どういう生態か改めて観察したいのもあって。とにかく24時間、何週間も撮影し続けるんです。それで気づくこともいっぱいあるんですよね。原作者としては気持ち悪いと思うんだけど、10年に渡って『cocoon』を読み込んでいると、こうなりますよ。いろんな可能性をマニアックに探っているわけだから。
――稽古場の段階でも、公演が始まってからも、「あのシーンを描いて今日さんって、やっぱりすごいよね」という話になる場面が多々ありました。
藤田 何度読んでも、いつも唸るんですよね、砂を掃き続ける夢のシーン。あのシーンはずっとひときわ、新鮮な気持ちで読んでしまう。砂浜を箒で掃除するというイメージって、凄まじいなって。掃いても掃いても、終わりがないわけだから。どうしてあんな夢を、あのタイミングでサンは見たのだろうと考えていくのは、同時に沖縄戦以降の沖縄を考えることにもなる気がして。砂って、時計でもありますよね。時間を象徴する役割もあるから、どこからともなく蓄積し続ける砂――終わることのない、拭い去れない時間の蓄積を掃き続ける、というか――あれをあのタッチで描いたのはすごいなって、いつも思うんですよね。
今日 あれは私も気に入っているシーンで。あれを描いたのは単純な動機で、あの頃すごい忙しくて、何をやっても終わらない気持ちになっていたんですよね。でも、沖縄のことを調べれば調べるほど、パッとどうにもできないこと、連綿と続くものがあるんですよね。
藤田 これも聞いてみたかったんだけど、漫画を単行本にするとき、話の順番を変えたりしてないんですよね?
今日 そのまま、連載順で。
藤田 舞台化する上で、いつも苦労するのが、“エッちゃん”が死んだあとの時間なんですよね。そのあと“サン”が日本兵に襲われたり、双子が死んだり、そこから海に至るまでの時間が微妙に長いんですよね。“エッちゃん”の死のところで郁子さんの「青い闇」が聴こえてきて、“エッちゃん”だけじゃなくて、それまでの道すがらで死んでしまった皆の、学校での生活が断片的にリフレインして。会場がその空気に包まれて、まるで作品自体にオチがついたように錯覚してしまう。そのあとの時間が難しくなる。ということを2015年以降、郁子さんともずっと話し合ってきたんですよ。郁子さんと役者さんたちの声の感じとか、ピアノの弾き方に至るまで、あのシーンについてはもうとにかく細部まで拘って。それでやっと、今年はちょっと抜けた感覚があったんですよね。
――抜けた感覚?
藤田 親友の“エッちゃん”が死んだあとにサンが経験し、目のあたりにすることは、生と死の選択、じゃあ性とは何なのか? 暴力とは? ということも含めてですよね。サンにとって永遠に続くような、でもたった1日しか経っていないような、海までのぬめりとした時間。今年は「青い闇」以降にこそ、『cocoon』の核心に迫っていく時間があると、やっと思えたというか。『cocoon』もそうだけど、現在に至るまでの沖縄という土地で何が起こったのか、という核心。
これはこの10年間、ずっと今日さんに聞きたかったことなんですよ。砂を掃くシーンも含めて、どうしてあのあとの時間をああいうふうに描けたのだろう、すごいなあ、って。親友が目の前で自殺するところでクライマックスへと向かうテンションをかけてもいいはずなのに、そこからなんとも言えない時間が続く。振り返ることも、前を向くこともできずに、未だに地獄、ずっと地獄、という状態でサンは海までの道をフロウしていくんですよね。当たり前になった地獄を巡っていく。
今日 連載中は毎回山場を作らなきゃいけないから、誰かを死なせなきゃいけなくて、ポンポン人がいなくなる感じになっているところもあるんです。長い連載じゃなければ、最後から二番目ぐらいに“エッちゃん”の死がくると思うんですけど。
藤田 でも、それよりもずっとリアリティがありますよね。連載が始まる時点で回数も決まっていたんですよね?
今日 本のボリュームから設計しているから、一回何ページで、この話数でっていうのは決められてました。
――“エッちゃん”の死は、今年の上演を見ていても、あらためてすごいシーンだなと感じたんですよね。解散命令が出たあとに足を負傷して、走れなくなって、「もう頑張れない」「……だめな子で……」「おかあさんごめんなさい」といって、みずから石で頭を叩いて死んでいくという。
今日 でも、そういう子っていません? あんまり自分主体で生きてなくて、「××ちゃんに悪いから帰るね」みたいな、そういうノリの子。中学生や高校生ぐらいだと、そんなに図太くなくて、人に慮りながら生きるのが得意な子――そういうキャラクターにしているんです。
藤田 一時帰宅のときの“エッちゃん”の表情もきっと、そういうことなんですよね。
今日 そうなんですよ。「お母さんを心配させちゃいけない」とか、「お母さんと別れちゃって不安」とか、あんまり自分がないタイプの子。それは別に悪いことじゃないし、その子にはその子なりの見せ場があるだろうってことで、“エッちゃん”をフィーチャーしているんです。
藤田 “エッちゃん”の役は、初演ははせぴー(長谷川洋子)だったし、2015年のときは(青葉)市子だったし、今回はあっちゃん(成田亜佑美)だし、キャスティングもいつもオーディションで、毎回どうしようかと悩んでるんですよね。ずっと優柔不断に、不安定なままで。そこが固定にならないのも“エッちゃん”らしいのかなって、今の話を聞いてて思いましたね。“サン”とか“マユ”とか“タマキさん”は――。
今日 もうちょっとわかりやすい感じですよね。
藤田 そう、動かさなくていいかなと思っちゃうんだけど、その3人以外の配役は全員、いつもなるべく動かしたいなっていう直感があるんです。特に“エッちゃん”は、描きたい人物像も、サンとの関係性も、初演と再演と今回とで全部違うアプローチをしていて。役が担うバランス感覚というか、ニュアンスも難しいから、答えがないな、と思うんだけど。最近の僕のトーンとしても、さっき言ったような郁子さんと話し続けてきた「青い闇」とシーンをどう成立させていくかという問題意識を考えても、今回はあっちゃん以外のキャスティングはあり得なかったな、って。“エッちゃん”が死ぬことで、それが作品が持つ感情そのものを決定的にしてしまうと、そのあとが描きにくいという難しさを、あっちゃんとやっと導き出せたと思う。そのあとを生きていくサンに繋がったというか。
今日 ちょっと、そのあとのシーンにおまけ感が出ちゃうよね。
藤田 そうそう、それで言うと“エッちゃん”が死んだあと、“サン”が日本兵に襲われるシーンも今年はぐっと短くしたんですよね。もうわかると思うし、充分だよな、って。その一方で、病院壕に動員された生徒が「兵隊が突然私をつかまえて変なことをする」と先生に訴えていた事実とか、ガマが軍の司令部だった頃に連れてこられていた慰安婦の存在を描くことで、男性性の気味悪さはところどころに散りばめたんですよね。
今日 今起こっているウクライナ侵攻でも、ロシア兵がウクライナ人をレイプしたというニュースが報じられていたから、「そういうことは戦争では起こりうる」っていうふうに受け手にインプットされているのかもしれないなと思いました。
聞き手・構成:橋本倫史
――後半へ続く