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藤田貴大単独インタビュー ♯4

──この10年、ひめゆりに限らず、沖縄に関するいろんな資料も読まれてきたと思います。史実として記録されていることや、資料として書き残されていることは膨大にあって、実際のところはどうだったのかってことを伝えることを考えると、「この資料を読んでください」とか、「あの資料館の展示を見に行ってください」とかってことのほうが強い部分は当然あると思うんです。でも、それをフィクションとして描きたいというのは、何が一番大きんでしょう?

藤田 20代の頃は「リアリティを持って描いてかなきゃいけない」って思ってたんだけど、じゃあリアリティって何かってことを考えるようになったんです。そこで血を流している人がいることがリアリティなのか。演劇はあくまでも虚構で、しかもあらゆるものを見立てながら作っていくはりぼての世界でもあるから、どんな過酷な物語を紡いでもやっぱりカーテンコールは訪れるわけで。死んでいたはずのキャストも、生きて楽屋に帰っていく。舞台上で「のどが渇いている」とかってことを演じていても、楽屋に帰ったら水は飲めるわけで。じゃあどこにリアリティを持つのかってことは、どの作品にも悩ましくあるじゃないですか。事実としてこうなんですってことを演劇がやり過ぎても、「それは資料館に行ってみなよ」って部分が出てきてしまう。それに、何かに置き換えて伝えていかないと、聞く耳を持ってくれない人たちっていると思うんです。心のどっかでは、「劇場に『cocoon』を観にくるんじゃなくて、沖縄のあの海岸に行ってみてください」って気持ちもあるんだけど、でももう一方で、僕自身いつも荒崎海岸には足を運んでますけど、何回行ってもわかんないゾーンがあるんですよね。そこで自決した人たちがいるってことはもちろんわかってるけど、そこに身体性はもうないし、そこで幽霊に会えるわけでもなくて。

──そこにいたひとりひとりと、実際に会えるわけでもないし、いくら足を運んでもわからないところはある、と。

藤田 リアルなことを追求すると活字の世界やドキュメンタリーの世界になるんだけど、そこから半歩浮かせて表現にしたときに、その場所に行くよりも鬼気迫るものがあるんじゃないかと思って演劇をやっているんです。あと、そこでこの人が亡くなったとか、その人はどんな状況で過ごしていたのかとかってことは、本を読んでると「それはもう、わかりました」って思うんですよね。でも、じゃあその人がその日に見た夢は何だったんでしょうってことを僕は考えてしまうというか。2年間かけて同じキャストで時間を過ごしたいと思った理由ははっきりとそこにあって、ひとりひとりに対してフォーカスを当てていく。「ひなちゃんって今朝も目覚めただろうけど」とかってことを、ひとりひとりに対して考えていて、その集中力の線が僕の中にあるんですよね。そうやってひとりひとりの表情にフォーカスを当ててていくことは、資料を読んだり現地に行ってみたりってことでは辿り着けない質感かもしれないなと思っているんです。

──たしかにそれは、同じ時代を生きていない人間からすると、想像をするってことでしか辿り着けないことですね。

藤田 僕らがやっている『cocoon』は──今日さんが手を伸ばそうとしていた『cocoon』は──数字じゃない世界だと思うんですよね。「何万人が死んだ」っていうふうに並べられる世界じゃなくて、「もしかしたら死ぬ間際にこういう夢を見たかもしれない」ってことを想像する。「戦争が始まってからはずっとお腹が空いているような酷い状況だった」ってことだけじゃなくて、「お腹が空いたときに思い浮かべたものって何だったんだろう」ってことを想像するのは、やっぱり表現やフィクションの範囲だと思うんです。それを不謹慎にやっちゃうのはもちろん駄目だと思うんだけど、フィクションと現実のコンセンサスをどうとっていくかってところに自分の仕事がある。今年の『cocoon』は、前回よりもある意味でフィクションにしたいし、僕の中では「あの頃のあの人たちを描きたい」ってことじゃなくなってきてるんです。でも、そのためにもまず、ちゃんと現実とコンセンサスをとった上で、『cocoon』っていう世界を生きている人たちを描くことが大切だと思っていて。

2015年『cocoon』

──初演と再演の『cocoon』も、沖縄らしさというのか、「これはあの時代の沖縄で起こったことだ」という具体的な世界を描くというより、抽象度の高い世界を描いていたとは思うんです。そこをもっとフィクションにしたいというのは、どんなイメージなんでしょう?

 何て言えばいいんだろう。初演と再演のときって、たとえば一時帰宅のシーンにしても、今日さんの原作にそういう場面があるからってことで描いてた気がするんですよね。でも、じゃあその子が帰宅する家ってどこなのか。ひめゆりの資料館を見ていても、「首里なまりがある子だった」と書かれている子がいたり、史実として残されていることってあるじゃないですか。それをひとつひとつ知った上で、最終的には関係なくしたいというか。あと、今回は少年兵も描きたいと思っているんですけど、その少年兵がどの時代のどこにいる少年兵なのかってことも濁したいなと思ってるんです。2022年を生きている少年だって、どこかの少年兵になる可能性がある。そうやって“現在”ってベースを強めたときに、過去と未来を行き来できるような描き方ができるんじゃないかと思ったんですよね。

──それは、『Light house』を経た今だから感じている部分もある?

藤田 そうですね。『Light house』のチャプター4にガマって場所が出てきて――ガマっていうのは、僕の今の言葉で言うと「地下世界」なんですよ。沖縄だと、ガマって言葉が防空壕ってこととイコールにもなってくるけど、ガマっていうのはやっぱり特殊な言葉で。でも、「地下世界」って言葉にすると、たとえばたった今、誰かが避難しているマリウポリの地下シェルターって場所とも繋がってくる。『Light house』のチャプター4では地下世界を描いていて、そこは今の現代社会のパラレルワールドで、そこは過去と現在と未来が混在して流れている、ちょっと時間が狂った世界みたいな感じで描いたんだけど、それに近いことを『cocoon』のチャプター3、ガマのシーンでも描けるなと思ったんです。

―──ここまで『Light house』と『cocoon』の話は伺ってきましたけど、そのふたつの作品だけじゃなくて、他にもいろんな作品の流れがあって今があると思うんですね。たとえば、今年の3月には、京都で出会った人たちとワークショップを重ねて、『川を渡る』という作品を上演されています。会場の展示の中には「話さなくたって/わかることってある/でも/言葉を尽くして/待っていた/劇場にて」という言葉があって、作品の中にはウクライナの情勢を想起させる言葉もありました。この状況に言葉なんてないっていうことは、別の作品でも語られていましたけど、言葉なんてないという気持ちを抱えながらも、言葉を尽くして劇場で待つというのは、『cocoon』にもつながってくる話だなと思ったんです。

『川を渡る』撮影:井上嘉和

藤田 言葉なんてなくていい世界になってきてるなって、率直に思うんです。言葉ではどうにもできないことが起こり過ぎているから。ウクライナのこともそうだけど、暴力を行使するしかないっていうのは、言葉が何も通じない世界だと思うんです。戦争とかじゃなくて、たとえば歌舞伎町で誰かが喧嘩してるのを見かけたときも、「話し合ってどうにかできなかったの?」って思いながら遠目で見てるんだけど、たぶん話し合うとかってことじゃなくなったから殴り合ってるわけですよね。それと一緒で、言葉なんてほとんど意味のない世界になってきてしまっているなって、数年前から思っているんです。コロナ禍になってからは、ますますいろんな言葉を端折られて「不要不急」って言われたり──そんなに言葉ってなかったっけ、って。演劇は不要不急だって言うんだったら、最低限の衣食住だけの世界になって、戦時中の「ぜいたくは敵だ」みたいな話になってくる。どんどん言葉を削ぎ落とされる時代になってるけど、演劇はそれと矛盾するように、言葉を尽くさなきゃいけなくて。

──言葉を尽くす。

藤田 僕が台詞として書く言葉だけじゃなくて、スタッフとも言葉を尽くしてやりとりする必要があって、照明家とやりとりするにしても「こういうあかりが欲しいです」じゃ駄目なんです。最近は自分自身ほんとにややこしい人間になってきてるなあって思うのだけど、「沖縄でこういうものを食べたんですよ」とかってことを最終調整していく切羽詰まった時間にいきなり話し始めるんですよ。「こないだ、橋本さんが持ってきてくれたサーターアンダギーがね」みたいに、一見関係ないような話をするんだけど、そうすると出来上がるあかりが全然違ってくる。演劇っていうのは、劇場にて言葉を尽くして待つものだし、言葉にこだわってやっていくものだと思うんですよ。だけど、たぶんそこの部分を見てないですよね、例えば現都知事にしても何人もの政治家たちにしても。一生忘れませんよね、今は演劇とかやらないでくださいってことを、彼らはなんの考えもなしにたった一言でただ言い切りましたよね。芸術や表現に対して知見がなく、思慮もないということが明らかになったわけですが。しかしそれは自分のことを否定されてるってだけじゃなくて、僕のチームにいる皆の営みを無碍にされている。だから──あのときは学生たちに伝えたかったってのもあるんですよ。

──『川を渡る』に出演されていたのは、大学生の皆さんでしたね。

藤田 あの学生のみんなが生きる時代って、僕らの時代より大変かもしれないなと思ったんですよ。それを説教がましい感じで稽古場で言うよりも、その言葉をテキストとして渡すことで、その意味を何年か考えてくれるかなと思いながら書いた言葉でもあって。Zoomでやりとりすることがこんなにも増えて、人との感覚や距離感が変わってくる時代だけど──『CYCLE』のときのふみちゃん(小椋史子)の台詞じゃないけど─こちとらアナログでやってるんで、対面しないとわからないことでやってるし、そこにいなきゃひかりって作れないし、皆で集まって確認しないと音のオッケーが出ないしってことをやってるんだよってことは言いたいですよね。戦争の頃のことを考えても、いくら言論統制されても、いくら兵士から「静かにしろ」と言われても、やっぱり言葉が必要だと思うんです。それと同時に、泣き叫ぶからってだけの理由でどれだけの赤子たちが殺されたんだろうってことも考えるし、声をあげた人たちがどれぐらい殺されたかってことにも繋がってくるので、その台詞は『cocoon』に繋がる気がしますね。

(取材・構成:橋本倫史)