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藤田貴大単独インタビュー ♯5

──今年の4月、「四月生まれの雷」というタイトルの下に、『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』と『Light house』というふたつの作品がLUMINE 0で上演されました。そのどちらの作品にも、「ひかり」って言葉がすごく大きな意味を持って使われています。『てんとてん〜』は『cocoon』の初演と同じ2013年から取り組み続けてきた作品で、世界のどこかで起きている悲劇と、私との距離が描かれてもいます。その作品でいろんな土地を旅してきましたけど、ツアーに訪れた土地でも、あるいは訪れたことのない土地でも、悲劇的なことは毎日のように起こっていて。『てんとてん〜』に取り組み始めたときは、「ひかり」って言葉には藤田さんの希望が託されていたように思うんですけど、10年近く経った今、ひかりなんて本当に存在するんだろうかとも思うんですよね。「ひかり」という言葉について、今の藤田さんはどんなことを感じていますか?

藤田 ほんとうに、ひかりって言葉を最初に使い始めたときは、そこに希望を見出そうとしてたと思うんです。橘田さんとの鼎談でも話したように、今日も変わらず朝がやってきて、ひかりがあるから色が見えるし、ひかりがあるから今を生きている命があるっていう、ちょっと、そういう気持ちでいたんです。『cocoon』でいうと、サンが生き残って、サンが生きてくれたから繋がった命がある。そこにひかりがあると思ってたんだけど、ひかりっていうものがどんどんわからなくなって。ただ、今回『てんとてん』と『Light house』を上演するってなったときに、「雷」って言葉を思いついて。雷っていうのは音も込みのものだから、ひかりには響きがあるなと思ったんです。

──たしかに、雷はひかりと音が一緒になったものですね。

藤田 『Light house』で「ひかりが聞こえるか」って台詞を書いてたんだけど、それって不思議なテキストだったなと思うんです。ひかりって、光源があって、そこから届いたひかりが目に入ってくるってだけのことなのに、なんで僕はそれを「ひかりが聞こえるか」って書いてたのかな、って。『小指の思い出』のときも、「色が聞こえる」って台詞と向き合った時に、芽生えたそういう感覚を僕なりに言葉にした気もするんだけど。ひかりが響きになって届いてくるっていうのは、もしかしたら雷なのかもしれないなって思ったんです。雷みたいなものがどこか遠くで落ちたような気がしたっていうのは、もしかしたらどこかの国の空爆かもしれないし、ただの自然現象かもしれないんだけど、それが響きとして伝わってきたってイメージを持ってみてはどうかなって思ったんです。

──響きとして伝わってくる?

藤田 今年の『てんとてん』のラストで、“さとこ”が「ひかりは、、、、、、ひかりは、、、、、、」って言っているところを観てたときも、もしかしたらそこにはひかりはなくて、どこかから届いてくるひかりの響きを聞いているだけなのかもしれないなっていう悲しさを感じたというか。『Light house』でも、「ひかりが聞こえるか」って言葉が徐々に変容してきたんです。ひかりが届いているとして、それが良いひかりなのかどうかはわからないよね、って。どこかでひかりが轟を持って落ちていて、それが届いているっていうふうにはしておきたかったんだけど、その轟がいいものなのかどうかはわからないっていう不思議さが、LUMINE 0での上演のときにはあった気がするんです。だから、『cocoon』でひかりって言葉を使うんだとしたら、それって何の話になるんだろうってことは追い求めるだろうなと思いますね。

2021年6月に訪れた荒崎海岸

──『Light house』の中には、「艦砲射撃の食い残し」「生きているほうが不自然だった」という言葉も使われています。それぐらい悲惨な状況があったものの、同じく『Light house』で語られているように、「そのあと、、、、、、生きた、、、、、、よしみちゃんがいた、、、、、、」から、今の世代が存在している。それってすごいことだなって、沖縄で誰かに話を聞かせてもらっているときもよく思うんですよ。そんなにも大変な状況のあとに、生きていこうと思うっていうのはすごいことだな、って。『cocoon』のラストにくる言葉は、ひとりだけ生き残ったサンによる「生きていくことにした」というものですけど、その言葉について、今どんなことを感じていますか?

藤田 そこは稽古が始まって見つけていくことでもあると思うから、この質問にはうまく答えられないかもしれないんだけど、「生きていくことにした」っていう言葉はほんとに宿題で、すごくシビアなものも感じるんです。自分だけ生きていくことが申し訳なかったっていう証言はたくさんあるじゃないですか。なんで自分だけ生き残ってしまったんだ、って。それをすべて振り切って「生きていくことにした」って言うのは、シンプルに難しいんですよね。漫画って表現だとそれが成立してるんだけど、演劇は身体性が伴うものだから、生身の人間が演じるときに結構難しくて。そこで生きていくことにした人がいるから今日があるわけなんだけど、そのあと生きてどうだったのか──。ただ、さっきは稽古場で見つけるって言ったけど、もう答えはあるのかもしれなくて。

──というと?

藤田 『cocoon』を9月まで描くってこと自体が、生きていくことにしてるからやれることなんじゃないかとも思うというか。正直、今この時代に「生きていくことにした」って言われても、ほんとに生きれるのだろうかってことは思ってしまう。『Light house』の那覇公演のときもずっと、「なんで生きていくんだろう」ってことをずっと思っていたんですよ。海が海であることに拍手なんてないし、ひかりがひかりであることに拍手なんてないし、そしてこれから生きていくこと自体にも拍手なんてないと思うから、拍手せずに劇場から出て行ってもらっていいですかぐらいにシビアに考えてたんだけど、『Light house』を進めていく中で気づいたのは、演劇って作業自体がひかりをキャッチしていないとやれないことなので、ひかりが届いているってことにしたんです。

―──それでシアターイーストのラスト2日から、最後のテキストがその言葉に変更されたわけですね。

藤田 その気持ちと一緒で、生きていることにしてるから、生きてる僕らが演劇をやってるんですよ。言葉にすると恥ずかしいけど、演劇ってほとんど生きていることとイコールなんですよね。こないだ藤子不二雄A先生が亡くなって、『まんが道』を読み返してたときにも思ったんだけど、映画や漫画って一つの定点がそこに記録として歴然とあるわけだから、亡くなった瞬間に死んだこと自体もその記録に刻まれて表現できるんだなあとしみじみ思ったんですが。でも、演劇は物語上では死んだことを表現できたとしても、結局のところほとんど死ぬこと自体を表現することは不可能なんじゃないかと思うんですよね。死んだ人を映像出演させたとしても、映像の中のその人は過去だけど、そこでストーリーを紡いでいる人たちは生きていることにしたからそこにいるって前提がある。だから、あの原作を舞台化するってこと自体が、「生きていくことにした」って言葉になるのかもしれないなと思っているんです。

(取材・構成:橋本倫史)