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7月からずっと、藤田君は皆に、初めて訪れた海の記憶を尋ねてきた。12月から合流した石井亮介さん、荻原綾さん、成田亜佑美さんにも、同じ質問を投げかける。

「石井君はさ、初めての海ってなるともう、普通に伊東の海だよね?」

静岡県伊東市出身の石井さんに、藤田君が尋ねる。

「そうだね。家の前の海だね」

「そうなると、初めても何もないよね」

「自分ではおぼえてないけど、産湯ぐらいの感じで海に浸かったんだと思う」

「いや、いくら海が目の前だからって、産湯が海ってことはないじゃん」

「なんかでも、0歳のときからもう、海に連れてかれてたらしくて」

「いや、それにしたって、産湯ってことはないよね?」

「亜佑美さんは、初めての海はどこですか?」

「初めての海は――全然憶えてないんだけど、写真に残ってる海だったら、オーストラリアの海。でも、記憶に残ってる海も、おんなじオーストラリアの海」

「何年か経って、また行ったってこと?」

「中学生のときに、旅行でね。海っていうとそこかも。ゴールドコースト」

「そこで泳いだ?」

「憶えてないんだよね。でも、たぶん泳いでないと思う」

「ゴールドコーストって、砂浜?」

「うん。すっごいきれいで、きれい過ぎて感動した。海の前に泊まってたんだけど、その海が好き過ぎてね、砂と貝殻を持って帰ったの。でも、その砂と貝に申し訳なく思ってる。ほんとうに申し訳ないと思ってて、いつかまた返しにいかなきゃなと思ってる。なんで持って帰ってきたんだろう?」

成田亜佑美さんから、オーストラリアから持ち帰った砂と貝殻の話を聞いたのは、『MUM & GYPSY 10th ANNIVERSARY BOOK』を作ったときだから、もう3年前になる。

この話を聞くたびに、打ちのめされたような気持ちになる。

小さい頃に海に出かけて、あまりに綺麗な風景に感動して、記念に砂や貝殻を持ち帰る。そこまではごくありふれた話だ。ぼくも実家の部屋を探せば、小さい頃にどこかで拾ってきたものや、持ち帰ったお土産がたくさん出てくる。でも、そのひとつひとつのことなんて、普段はすっかり忘れて過ごしている。久しぶりに見かける機会があったとしても、そういえばこんなのあったなと思うだけで、見過ごしてしまうだろう。たかだか砂や貝殻なんて――と。

そんなふうに見過ごしてきたものが、どれだけあるだろう。

戦争が起これば、「たかだか××なんて」と見過ごされるものがどんどん増えていき、生活が奪われてしまう。そのことを考えるとき、「たかだか砂や貝殻なんて」と思ってしまっている自分にぞっとするし、たかだか砂や貝殻のことをそんなふうに思い続けている成田さんの言葉に、打ちのめされてしまう。

「まるは、初めての海は?」

「中2か中3の夏休みに、遠泳大会があって。それは自由参加で、私はあんまり泳げなかったんだけど、なぜか泳げるほうのチームに入っちゃって。初めての海なのに、すごい遠くまで泳がされて、ほんとうに死ぬかと思った」

「それはどこの海だったの?」

「憶えてない。たぶん千葉とかだと思う」

「それ、どこだったか調べられる?」

「たぶん、調べられない」

「そうだよね。皆、どこの海だったか調べてきてくれたんだけど、いきなり初めての海って言われても、調べられないよね」

皆の海の記憶が出揃ったところで、藤田君はあらためて、初めての海の記憶を聞いていく。ここまでは雑談するように座ったまま話してもらっていたけれど、ここからはテーブルにつく藤田君の前に立ち、たった今記憶の中にある海に立っているように説明してもらう。

「砂とかじゃなくて、ごつごつした岩みたいなところだから、裸足じゃ歩けなくって」。身振り手振りをともなって、小泉まきさんが初めて訪れた海を説明する。「で、階段らしきものを降りて、ここまできたんだけど。海岸の上は道路になってて、あっちにお父さんが育った、40世帯ぐらいしかない村があって。で、このへんに、ちょっとした、自然にできたっぽい洞窟、ちょっとした空洞があって。ここに持ってきた荷物を置いて、休んだりする」

「うん、なるほどね」。そういって藤田君は頷き、ノートパソコンを開く。砂とかじゃなくて、ごつごつした岩場で、裸足じゃ歩けなくって。言葉を反芻しながらキーボードを叩き、テキストをタイプする。

「洞窟みたいな空洞がこのへんにあって――持ってきた荷物?」

「そう。青と白のクーラーボックスみたいなやつ」

「なるほど。クーラーボックスを置いたりする」。こうして藤田君は、皆の記憶を自分のテキストに変換してゆく。2時間ほどかけて、全員の記憶をテキストにまとめ終えると、それをプリントアウトして、皆に配る。

「このテキスト通りやってほしいとは思ってるんだけど、前にもちょっと話したように、ぼくのお芝居って、台本がそもそもないんですね」。全員にテキストを配り終えたところで、藤田君が言う。

「僕は台本ってものに対して、抵抗感あるんです。今年の7月から取り組んできた皆との作業も、ここまではずっと、文字を介さずにやってきたじゃないですか。でも、そこに文字が生まれた時点で、言葉が文字っぽくなっちゃうんだよね」

藤田君の作品は、台本が完成した状態で稽古が始まるのではなく、テキストがない状態から始まることがほとんどだ。稽古場に入り、空間に俳優や物が配置されるところから、言葉が生まれる。そうして生まれた言葉は、プリントアウトされた活字としてではなく、口伝えで俳優に伝えられてきた。

「声って、ほとんど音じゃないですか」と藤田君。「声を聴いたときに、人ってあんまりそれを、頭の中で文字に変換しないと思うんですよね。でも、それに矛盾するように、演劇には台本ってものがある。なんか文字みたいな声になっちゃってる演劇というか、『文字があるんだろうな』ってことが見え透いちゃってる演劇ってあると思うんだけど、それってちょっと矛盾してるなと思うんですね。観客は文字の作業をしてないのに、俳優が文字の作業をしてきたからってことで、文字を押し付けられるような演劇を見るのは結構苦しくて。僕も結局台本にはするんだけど――台本ってものがないと、演劇は結構まずいので――でも、『文字が先にあったわけじゃないよな』ってことはおぼえてて欲しくて。台本はあくまでチェックするためのものであって、『先に文字があって、それを暗記して上演しようって順番じゃなかったよな』ってことはおぼえてて欲しいんだよね。僕らがやってるのは声の作業だし、音の作業だよなってことが念頭にないと、どんどん言葉が文字っぽくなっていく」

藤田君が書いたテキストは、俳優の皆が語ってくれたひとりひとりの声が先にあって、それを藤田君がパソコンにタイプしたものだ。それを台本のように読み上げてしまうと、本来は語り言葉だったはずのものが、書き言葉のように響いてしまう。それに、そのテキストというのは、ひとりひとりの記憶をもとに書かれたものだ。だから、その言葉は本来、ひとりひとりの内側に眠っていた言葉だ。だから、そのテキストは、「一言一句間違えないように」と発語されるよりも、その人の内側から出てきた言葉として語られるべきなのだろう。

ただ、その言葉には“嘘”がある。

皆が語ってくれた記憶と、それをもとにして藤田君が書いたテキストのあいだには、微妙なずれがある。書かれたテキストは、皆が語った言葉をベースにしながらも、藤田君の文体としてまとめられている。

「劇作家っていうのは言葉をデザインする仕事でもあるから、たとえば小石川さんのエピソードでも、僕が書いたら僕の文体になるんだよね。作家っていうのは、ちょっとした文体をつけるだけで、小石川さんのエピソードを藤田作品っぽく書けちゃうわけ。作家って、皆のエピソードを扱いながら、皆のエピソードじゃないふうに“嘘”をついて書けちゃうんだよね。それをどんどん重ねていくと、海の記憶の話だったはずのものを、学校の会話とかにもできちゃうんだよ。それを狙ってる、というか。もとをたどれば皆のエピソードなんだけど、もう自分のエピソードじゃないぐらい“嘘”をつかれた結果として、1年半後の上演になったときにはフィクションになってるって状態を目指したいんだよね。じゃあ、そのテキストをちょっと読んでもらって、5分後ぐらいからちょっとやってみましょう」

人はなぜ“嘘”を、フィクションを必要とするのだろう。

皆は藤田君のテキストに変換された自分の記憶に目を通す。5分経ったところで、上手側からひとりずつ登場し、初めての海の記憶を語ってゆく。今年の7月にマームとジプシーの事務所で始まった作業は、5ヶ月経ってようやく、俳優が藤田君のテキストを発語するところにたどり着いた。

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